鬼平犯科帳、遠い過去の営み


ご自身もウィンドサーフィンをされている、ヨットクラブのメンバーの奥方に勧められて読み始めた鬼平犯科帳
長く事務所を構えていた芝公園や共同設立した会社が一時的に拠点を置いていた目黒付近の地名も頻繁に登場するためか、いつしか現実との区別をなくしながら遥か遠くの昔に想いを馳せつつ、当時の街並を実際に歩いて物語を見聞きしている様な気にさせられる24冊の小説を読み終えました。

私が人の死を最初に意識したのは、小学生低学年の事。歩いて15分程の距離に済んでいた遠い親戚でもあったおばさんが亡くなった時でした。
幼少の頃ごく稀にその家に預けられていた私は、そのおばさんと魚屋に買い物に行った際に大きな蟹を食べたくて買って欲しいとねだった事があったらしく、しかしながら決して経済的にゆとりがあった訳でもないそのおばさんは「これは赤くてとても怖いから今日は買うのを止めようね」と私に諭したらしいのです。蟹を食べたかった私に応える事が出来なかったその時の事を、いつまでも気に病んで後悔していたと言う事を成人した後になって聞いた私は、おばさんのその優しさと哀しさに一度ならずとも涙したものでした。
その後は親戚や友人との悲しい別れを人並みに幾度となく経験し、そして40代中盤にさしかかった今日では、まだまだ決して老いてはいないものの老いと言うものを容易に理解し又想像も出来る様にもなり、そして老いの延長線上に確実に存在する死を、子供の頃とは全く違った観点で意識する様にもなって来ています。

江戸時代の遠い昔に、ほんの少しの人生の歯車のゆるみから盗賊となってしまった人々と、偶然ではないにせよ盗賊を取り締まる立場となり身を粉にして働く長谷川平蔵の胸中の様々。中には根っからの極悪人も登場するのですが、鬼平犯科帳の登場人物は基本的にはその様な人々の心情がきめ細やかに描かれており、そんな登場人物が織りなす事件やドラマを通じて、私が一貫して感じていた事は実は盗賊改メの活躍ではなく、人間の営みと命、即ち死の事なのでした。

猿と人間の一番の違いは時間の概念を持っているか否かである、とテレビの動物番組か何かで見聞きした事があります。猿は時間の概念を持たない故に老いや死が理解出来ないという事らしく、幼くして生涯を終えてしまった赤ん坊の猿をその母親がいつまでも手放さずに抱いている映像を良く憶えています。
鬼平犯科帳の中では、幼い子供を含む裕福な商家の家族や使用人、そして盗賊や長谷川平蔵の部下である盗賊改メの同心と、実に様々な人々が他人によって生涯を終わらされる訳ですが、誠実な人生を生きる人や極悪非道の犯罪人も自分の意図しないところで命を落としてしまう事とあたかも対をなす様に、家族や仲間を愛し、美味しい料理に舌鼓を打ち、温泉に癒され、夫婦の営みを重ねる、そんな遠い昔の日常が決して今日のそれと決してかけ離れたものではなく、私にとってはむしろ今も昔も変わらない人間の性と生死を強く意識させられる作品だった様に思えます。

私の胸の中に今も消える事なく脈々と息づいている、子供に蟹を買い与える事が出来なかった亡き彼女のそんな優しい想いを忘れる事の無い様に、そして人は皆必ず老いて死んで行くものだからこそ、今この時をこの何でもない日常を大切にしなさいと、鬼平犯科帳を完結させる事なく執筆途中に逝去された数十年前の当時の作者が、時を超えて私にそう語りかけている様な気がするのでした。

トップ写真:事務所移転前に今更ながら芝公園〜増上寺近辺を歩きました。増上寺が徳川家の菩提寺である事さえ知らなかったのはお恥ずかしい限りです。