写真に替えて

遠く左方眼下に目的地である神戸空港を臨みながら、姫路の手前上空付近で急旋回した機体は、登ってまだ間もない太陽に向かって徐々に正面に進路をとる形になってゆく。

陽の光に温められ始めた1月の冷えた瀬戸内海の水面は次第に靄を発生して、彼方に広がる目覚めたばかりの大阪の街をかき消すように立ちのぼり、そして右手の淡路島をくっきりと浮かび上がらせる。更に後方から降り注ぐ光はキャンパスの隅々に行き渡るように彩りを添えつつ、同時に島の陰影をもくっきりと際立たせる。
海面を滑るように往く船は思い思いの方向に伸びる幾筋もの曳き波を従えて、凪いだ海面の穏やかさを殊更に際立たせている。
動く水彩画のような窓に映し出され次々に移り変わる景色は、機外の朝の澄んだ空気がじかに頬に触れている一瞬の錯覚をもたらした後に、明石海峡大橋を前方に投影する事によって、機が最終の着陸態勢に入った事を告げた。

トップ写真:ポートアイランドから臨む神戸の街並。

いばらの海


最初にお断りしておくが、私は辺野古への基地誘致容認に関して賛成・反対の如何なる姿勢を示している訳ではない。
ヤンバルに生涯の友と呼べる幾人かの友人と潜水漁の師匠がいる関係で、必要以上に神経質に事の成り行きを見守って来た一人のナイチャーである。

さて、今日の沖縄県名護市長選挙で、辺野古への米軍基地移設に明確な反対の姿勢を示す稲嶺候補が勝利した。

13年に及ぶ基地問題に関する、市民投票と市長選の投票結果が初めて整合的になった事を受けて、本来であれば今後は辺野古の代替案の模索と普天間基地の固定化の解消に政府内の議論の焦点が移っていくのだろうが、現実はそうではあるまい。

現行案を履行させようとする米国からの圧力に加えて、予想される新しい移設候補先の自治体・住民からの反発、そして沖縄県内に渦巻く普天間基地固定化の懸念などを考慮してか、現時点で明確に辺野古移設中止を明確に言及しているのは稲嶺新市長に加えて社民党党首以外には見当たらない。更に、選挙結果が明らかになった事に呼応するかの様に、2chTwitterでは、基地を受け入れないのならばこれまでの北部振興策による補助金を返還すべき事を認識しろと言う、何故か名護市民に対する意見が一斉に流れ出している。
また、市長選挙の得票差にも現れている様に、基地受け入れ容認派でもありこれまでの経済発展の効果を前面に押し出した島袋氏に対して、決して稲嶺氏が圧勝したというふうに見ている人は居ないはずである。そう言った意味では、地元の意識が必ずしも統一されているとは言えず、この様に考えてみると稲嶺新市長の基地問題に関する公約が実現される可能性は極めて低いのではないかとさえ思えて来るのである。

簡単には活性化は出来ないと見られている名護市街地のシャッター通りに代表される地元経済の振興や雇用確保に関しても、基地誘致の実施如何に関わらず、今後は新体制による施策やその結果が今以上に問われてくるだろう。

このエントリーのタイトルでもある「いばらの海」は、決してキャンプシュワーブ付近の砂浜に巡らされた鉄条網を指す事だけを目的としてはいない。むしろ、基地の受け入れ拒否を表明した民意に基づいて市政を執り行っていくであろう新体制が乗り越えねばならないこれからの長く険しい道を指しており、また自然保護の観点で基地受け入れ拒否の一つの論拠としてのシンボルとなってしまった辺野古の海の未来を形容した言葉でもある。

美しいあの東海岸の海に、いつの日か穏やかで平和な時間が流れる様になるのか、今回の選挙は大きなターニングポイントであれども、まだ単に小さな一歩を踏み出したに過ぎない。

トップイメージ:基地建設反対派の方々のブログ「ちゅら海を守れ!沖縄・辺野古で座り込み中!」より拝借

一人の少女の安全も守れない沖縄、と日本


気が付けば遠く離れた名護での市長選挙投票日まで僅か後3日。
日米の多くの人が、様々な立ち位置と主張から固唾をのんで見守るその投票結果の見通しが連日の様にテレビ画面から流れる。そこでは「これまで」と「これから」の二つの時間軸での、経済発展(飴)と基地(鞭)の関係のみが議論のネタになっている。そして、そこで取沙汰されるのは基地という土地空間や武器・航空機と言う物理的な物だけである。

以下、米軍の「海兵隊」という、議論の対象に上がる事のないもう一つのファクターについて、以前も紹介した事のある「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史:佐野眞一著、集英社インターナショナル(2008年)」からの一部引用によってご紹介したい。

少女はその日の午後八時過ぎ、自宅から歩いて三分とかからない文房具店で百五十円のノートを買い、店から出たところを三人の米兵たちに襲われた。少女は彼らがかねて用意してあったレンタカーの車内に力ずくで押し込まれ、これも犯行のために準備してあった粘着テープで両目と口を覆われ、さらに両手足首を縛られた。そして拉致現場から約1.5キロ離れたサトウキビ畑に連れ込まれて強姦された。
事件現場となったサトウキビ畑の近くには人家はまったくなく、夜になれば太古の闇に包まれる。サトウキビの高く伸びた茎が遮音して、近くの海岸の波音もここまでは届かない。ここで二メートル近い黒人の大男たちにかわるがわる強姦された少女の恐怖は想像するにあまりある。告訴に踏み切った少女と家族の勇気にあらためて敬服するほかなかった。
と同時に、このとき来日した三人の被告の家族らが「反米感情が強い沖縄での裁判は自白を強制される恐れがある。こんなところに可愛い息子を置いておけない。沖縄以外での裁判を望む」と抗議した無恥と厚顔さに、言い知れぬ衝撃と絶望感にとらわれた。(611-612頁)

アメリカでの射撃訓練は丸い標的だったが、沖縄ではそれが人形となって、頭や心臓ではなく、股間を狙えと叩き込まれます。心臓や頭は標的が小さく撃ち損じになる事が多いからです。その点、股間は標的が大きく、敵も長く苦しみながら死んでいきます。
沖縄では、ピアノ線を使って相手の首を絞めて殺す方法から、相手の目玉に指を突っ込んで殺す方法、棒で相手のノドを突き刺す方法、後ろから忍び寄って相手が声を上げる前にナイフでノドを掻き切る方法まで、三二種類の殺人方法を教わりました。ベトナムの実際の戦闘では、上官から、殺したベトコンの耳を切り取って、それを首飾りにしろと教えられました。沖縄に帰れば、女でも酒でも楽しめる、暴行しても逮捕されないと教えられました。こういう洗脳教育で正常な人間の感覚が麻痺していくのです......
新人キャンプ時代には、夜中に叩き起こされた教官たちに怒鳴られながら、こんな返事を何度もさせられた、とも書いている。
(「おまえらは誰だ」「海兵隊員です」「声が小さい、お前らは何者だ」「海兵隊員です」「おまえらの任務は何だ」「殺すことです」「スペルを言ってみろ」「K、I、L、L、キル、海兵隊員、ウォー」)(615-616頁)


殺人の為に訓練された複数のプロと一人でも互角に渡り合える様な腕に自信がある人ならまだしも、私には、経済的に多少潤った町であったとしても、彼らを隣人として受け入れる覚悟や勇気は到底持ち得ない。

トップ写真:上空から見た辺野古崎。防衛省情報検索サービスより。

廃盤CD、38,000枚

社団法人日本レコード協会による定価の最大70%OFFという廃盤セールがあるというので、会員登録をしてサイトを覗いてみた。セールのタイトルは、「レコードファン感謝祭」。中学生の頃にせっせと通った町のレコード店の懐かしい匂いを思い出しながら、今はウェブサイトで商品を一通り眺めてみた。

取り敢えず気になってお気に入りに登録してみたのが、高校時代にアルバムを買った事のあるリンダロンシュタットの「夢はひとつだけ」(税込価格:536円)とネーネーズの「コザdabasa」(税込価格:856円)の2点。
だが、送料を含めると別の中古をAmazonで買った方が安くなるため、この微妙な価格設定に二の足を踏んでしまう人も多いのではないか。
38,000枚もあるという在庫がどれ位捌けるのだろうかと、余計な心配をしてしまった。

子供心に憧れたリンダロンシュタットも、今は見る影もなく...。

クロスメディア禁止法案

CATV局を代表とする地方の放送メディアには、その母体や株主として新聞社が関与している事が多い。詳しく統計を取った訳ではないが、感覚的には、当社と何らかの形でお付き合い頂いているCATV局の1/3程が新聞社との資本関係を持っているのではないだろうか。
総務省が14日に打ち出した、新聞社が放送局を支配する「クロスオーナーシップ」を禁止すると言う考えをウェブ(例えばここ)で見つけて、最初に思い浮かんだのがそんな地方のメディアの事だった。

その記事によると、原口総務相が打ち出した考えは、特にジャーナリズムの観点に立った場合の、新聞社と放送局のクロスオーナーシップが言論の多様性を阻害するという可能性を考慮し、新聞社の放送支配禁止を法案化しようと言うもの。これに対して、既存の大手メディアは「黙殺」という手段に出ており、民放連が大きな騒ぎにならないうちに潰しにかかるであろうとしている。

例えばわたしもたまに関わる事がある政府・自治体の情報化施策等の場合は、中央の動きがやがて地方に拡散する事が常であるが、この法案が現実の物となった場合もそれと同様に、大手メディアと地域メディアが一括りに議論される事が予想される。その際に、疲弊する地域を支えて来た地域メディアは、生き残りをかけた更に熾烈な闘いの場に駆り出される事になるか、海外資本等のターゲットとなる事は明白である。

数年前の事だが、夕刊を時間内に、或いはそもそも届ける事が出来ない地域に対して、アナウンサーの紹介による記事のダイジェスト版をCATV網を使って配信するといった実験を行った事がある。それは、新聞社の社屋のワンフロアにあるCATV局でエンコードした放送品質のデジタルビデオを、サーバを介して隣の市のCATV局にて送り届けるというもので、刷り上がったばかりの夕刊が持ち込まれたCATV局内のスタジオでの映像を如何に早く且つ確実に届ける事が出来るかがポイントだった。圧縮と伝送に要する時間が放送スケジュールにそぐわなかったため、残念ながらこの実験は試みだけで終わってしまったが、そんな新聞社と放送局の連携も資本関係の希薄化によって変わって来るのは必至だろう。

仮に新聞社 - CATVの親子関係を縦とすると、地方や県をまたがってCATV事業の効率化を図ろうとするMSOは横の関係という事が出来る。この縦の関係が禁止される事になった場合に、前述の様に海外資本のターゲットとなるか、或いはより一層、横の連携が加速するのではないだろうか。

トップ写真:1月と言えども天気の良い日は海沿いに人が集う。横須賀市の馬堀海岸にて。

新年のご挨拶


新年あけましておめでとうございます。

皆様におかれましては素晴しき新年をお迎えの事とお慶び申し上げます。
旧年中は公私にわたりまして大変お世話になり、誠に有難うございました。

昨年は、当社も例外なくここ数年の不況によってまるで大海の木の葉の様に翻弄されてしまった一年でしたが、そんな中でも長年手掛けて参りました地域メディアのポータル事業「Vojkru(ボイクル)」をベースにした新しい枠組みによるサービスの準備を整える事が出来ました。間もなくスタートを迎えるこのサービスによって、地域メディアの新しいビジネスモデル確立のパイロット事例を皆様にご呈示出来るのではないかと、猛烈な時化の中に一筋の光明を見いだした、そんな思いで年末年始を過ごさせて頂きました。
また個人的には、長年の夢であった沖縄の伝統帆走漁船「サバニ」を手にし、その文化や技術を継承するという志を同じくするメンバーとともにチームを結成する事が出来ましたが、半世紀前に生まれたサバニの修復等を通して実に多くの方にお世話になり、そして同時に心温まるお付き合いをさせて頂きました。
この様に2009年は、新しく出会った方々や旧知の方々から賜ったお付き合いの有難さを身に染みて感じた一年でもありました。

何卒、本年も変わらぬご指導の程お願いを申し上げたいと存じます。

本年が皆様と皆様のご家族にとって素晴しい一年でありますよう心よりお祈り申し上げます。


                       2010年元旦

                     株式会社ヘルムス
                   代表取締役 津輕良介

トップ写真:衣食住のうち、衣と住の感謝を込めて神前に捧げる玉串を、義妹と一緒に準備し、家族が増える事の喜びを実感する。

祈りの日々と言葉のちから


景気の低迷の影響に沈んでいた昨年のある時期に、とある人から言われた言葉がある。
「人間の力だけでは何ともならない事がありますからね。」
その言葉は、私の背中に張り付いていた澱の多くを引き剥がし、同時に腹の底、丹田の気力をも瞬時に甦らせた。
それは、人の言葉がどれ程に聞く者の心の奥に届きそして影響するかを実感した瞬間でもあった。

大本という宗教の家に生まれ、幼少期をその境内で過ごした私ではあっても、こんな言葉がスラスラと口から出る程の信心が備わっている訳ではない。それどころか、宗教的な事や日常的に神仏に祈る事さえも奇異であるとする一般的な今日の日本の風潮の中に、私自身も身を置いていたのかもしれない。
そんな40年以上に及ぶ人生の中で持ち続けて来た慣習をも打ち破る、この短い言葉をきっかけとして、それ以来は転居に伴って新しく備え付けた神棚に向かう機会は自ずと増える事になった。

3度の食事に不自由しないこと、家族が健康である事、自らも教育を受け、そして子供にも教育を受けさせてやれる事、素晴しくかけがえのない友人に恵まれている事、そして好きな事業に打ち込めること。それら全ての事が無上の財産であり、そう思う時には幸せな心に満たされる。朝夕の礼拝時に、隣できちんと正座をして私の真似をする子供たちを通して、40年前の自分自身を見たような気分になる。




家族を連れての久しぶりの年末年始の帰省から帰宅した私は、ポストから取り出した年賀状の一枚一枚に目を通す。その中の一枚、大阪に住む旧知の先輩からの葉書の、印刷した定型文の傍らに手書きで記された言葉が胸に突き刺さる。
「毎日命がけで仕事してる!!」
東洋医学を学び、現在は医療機関に従事する彼の奮闘振りをダイレクトに伝えるその筆跡は、心気を充実させて更に事業に集中せよと、力強く私の魂を揺さぶり、やがて昔読んだ詩の一節を甦らせた。


無理からでも為せ 遮二無二進め
なんでもかんでも音を立てよ
思いに思い 言いに言い なしに為せよ
消極は地獄であり 積極は極楽である
瞬時も休むことなく宇宙はまわる
何事でもよい 思い立ったことを
全力をあげて 全心をかたむけて
全身の全細胞にねじ鉢巻させて 全身の全血管に波立たせて
見かけはどんな卑しいことでもよい
見かけは遊戯のように見えることでもよい
面白く愉快に興味にみちて 為しさえすれば真の生活だ
理屈はどうでもよい 他人はどう解しようがままだ
したいと思うことを 為せばならぬと決意したことを
いま目の前に出て来たことを
ドンドン為せよ つぎつぎに為せよ 遮二無二為せよ なせよ為せよ
なすのが生活だ

出口日出麿詩集(2001年、天声社発行)「あるがままに」より「遮二無二為せ」
トップ写真:エスペラント語の精神である「Unu Dio, Unu Mondo, Unu Interlingvo(一つの神、一つの世界、一つの共通語)」という言葉が記された石碑。世界は実にいろいろな言葉で満ちあふれている。