沖縄の魚

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ネクタイから銛へ

沖縄はヤンバルの村で漁師になって1年半以上が経過した。

琉球大学を卒業した後も、学生時代の縁や帆掛けサバニの活動を通じて付かず離れず沖縄と関係していたとはいえ、東京の港区で神谷町のマンションに住みながら、虎ノ門の事務所に通う生活を送っていた20数年前の私には、銛と電灯を持って夜に潜水漁をしている今日のことは到底想像出来ないことだろう。亡き祖父が漁師、沖縄でも何人か海人の知り合いがいた等、漁業とは袖触れ合う程度の縁はあったものの、自身の環境の変わり様には自分でも驚くばかりだ。

さて、漁師になるのに先駆けること約半年、漁港内に牡蠣小屋風食堂「レキオテラス」をオープンした。炭火浜焼きの本土産牡蠣と、地元の魚介類を使った料理の二本柱をコンセプトとし、格式張らない、昭和時代の古き良き海の家をイメージした店は、多少の紆余曲折を経ながらも少しずつではあるが、沖縄県内の顧客、観光客、更に海外からの観光客にも受け入れられつつあることを肌で感じられる様になってきた。

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謹賀新年

新年明けまして御目出度うございます。
謹んで新年のお慶びを申し上げます。

旧年中は公私にわたりまして大変お世話になり、誠に有難うございました。

政治も経済も、国内も外交も、個人も社会も、あらゆる意味で問題が山積みではありますが、朗らかに前向きに、一つ一つ乗り越えて行ければと思っております。

何卒、本年も変わらぬご指導の程お願いを申し上げたいと存じます。
本年が皆様と皆様のご家族にとって素晴しい一年でありますよう心よりお祈り申し上げます。

2013年元旦
株式会社レキオネシア/サバニ帆漕チーム綾風
津輕良介

オガウエガイキハチムモモモン

筑紫哲也氏の番組を見て涙したことがある。各国を歴訪した江戸末期の外国の外交官の記録の中に「この国の人々は、貧しくとも一様に礼儀正しく勤勉で、家々の鍵も掛っていない。何よりこれ程朗らかな子供の笑顔を初めて見た」との、日本に関する記述があったと聞いた時だった。

後の西洋化や昭和の経済成長によって生活は様変わりし、小川や渚は次々とコンクリートで塗り固められた。道行く人々の笑顔は消え、子供ら弱者が犠牲となる事件が多発する、変わり果てた今日の日本。その憂いと悲しみが思わず形となり私の頬を伝ったのだ。我々は何と多くの時間と努力を費やして、大切なものを失ってきたのだろう。

往々にして国も地域も、内より外からの評価が高く、その価値に普段は気付かない。沖縄の場合その顕著な例は海だろう。これには反論があるかもしれないが、海が大切にされているか否かは雨後の茶色い水面が物語っているのではないか。環境保全より経済振興に価値観の基軸を置いた行政は、その拠点としての海辺の開発に余念がない。今なお埋立てが続く海岸に、以前の海辺の暮らしは永遠に戻らない。

西洋文化に憧れ民族衣装さえも形骸化した日本が、自ら背負ったコンプレックスを拭い去る事は困難だろう。今日の帆掛けサバニがそうである様に、失われたものを取り戻す労力は途方もない。文化の均質化を許容する思考の程度は、ローマ字で自分の名前を書いて喜ぶ無邪気な子供と変わらない。

最後回のタイトルは呪文や頓知ではない。例えばウチナーの様に、母音のオをウに、またキをチに変えると方言の発音になる日本語があるが、これは方言の理解の為に私が考案した法則だ。そんな努力が一切苦にならない程、またサバニや方言に限らず、沖縄の文化や自然は素晴らしい魅力で満ち満ちている。


琉球新報 2011年12月30日 コラム「南風」より、一部改変)

朽ちゆく宝

友人から、那覇のホームセンターにサバニが置いてあるとの情報を貰った私は、早速仕事帰りに立ち寄ってみる。よく見ると件の舟はサバニではなく、大正時代に和船の長所も取り入れて考案された、奄美大島のアイノコだった。サバニは他の地域の海事文化に強い影響を及ぼしてきたが、アイノコはその最も身近な例だろう。

様々なご縁を辿って、船齢60年になると言うサバニを頂く事になった。が、舟底は真っ二つに割れ、舳先も艢にも蟻が巣を作ってしまっているため、朽ち果てて半ば土と化している。サバニの先輩や仲間からは、修復は不可能だからこの舟はそっと眠らせてやるのが良いとの意見を貰った。

さて、帆掛けサバニは、例えば舟底の形状の些細な変更でさえ乗り心地や耐波性能を大きく左右する。手作りである木のサバニは全てが違う舟であり、従って廃棄した舟は二度と蘇る事はないため、その特性は永遠に失われてしまう。60年前の匠の技が残した、沖縄の大切な宝物でもあるこのサバニでセーリングし、また何とか形を記録として残したい。舟作りは全くの素人の私だが、仲間の意見に反して、自分で少しずつ修理をするという衝動を抑えられなかった。

そんな私に南城市の複数の知人が、駐車場の一角の提供、舟形の計測、補修材の調達等で協力してくれると言う。もしこれに加えて、地域の行政機関や学校の協力が得られれば素晴らしい。

作業が進むに従い、奄美のみならず遠く諸外国まで強い影響を与えたという、古の舟大工の息吹と丁寧な仕事が伝わってくる。修復作業はサバニの工法や特性を紐解いている様でもあり、常に驚きと感動に満ちている。修復の過程はフェイスブックやブログで随時公開中、私の名前ですぐに見つかる筈だ。是非ご高覧頂きたい。

琉球新報 2011年12月19日 コラム「南風」より)

飽食の島

貧乏学生だった私にとっての当時の最高の贅沢は、辻にあったステーキハウスの定食と、海人修行をしていた辺戸名の食堂のボリューム満点の肉そばだった。それから20数余年。カレーライスにライスを注文する程の食欲は遠い昔に失ってしまい、人様より少し多めの生活習慣病と付き合いながらの生活を送っている私には、沖縄に来ていつも目に留るものがある。それは、まるで量を競うかの様な町中の定食屋の料理である。

例えば沖縄そば定食に、十分な量のそばに加えて、ジューシーと、チキンカツ・刺身・ポーク卵等の副食が付いて来る。今の私の2食分を優に超えるそのボリュームにはただ圧倒されるのみだが、私と同世代のサラリーマンがそれをペロリと平らげている事に2度驚かされるのだ。

適正な食事やカロリーの量に関する知識を少しでも持っていればわかる事だが、前述のそば定食は、南極越冬隊が必要とする程の明らかなカロリーオーバーであるばかりか炭水化物に偏り過ぎていて、余程の運動でも消費する事は困難だ。沖縄がかつての長寿の島の称号を失ってしまったのは、決して消費される島酒の量に牽引されるだけでなく、この様な食生活も深刻な影響を与えているからに違いない。

長い人類史上、満腹の食事が可能になったのはここ50年の事に過ぎず、生物学的に見てもカロリー超過摂取に対応する進化は、気の遠くなる世代交代を待たなければならない。人間の体は今日の食べ過ぎに悲鳴を上げ続けているのだ。

平日は水泳、休日にはサバニを漕ぐという生活を続けている私でも、皆さんの半分の量の食事で十分な満足を得る事が出来る。ご自身の健康とご家族と、そして沖縄の発展のためにも、食事の仕方を今一度見直して頂きたいと思うのである。


琉球新報 2011年12月1日 コラム「南風」より)

ナイチャーの孤独

学生時代、与那原の酒場街で乱闘騒ぎを起こした後に、酒に潰れてスナックのソファーで寝てしまった事がある。翌朝一人目覚めた私は「戸締りして帰って下さい」との書き置きが添えられた鍵を目にして驚いたものだ。若気の至りの反省と共に、おおらかで優しい人々の気質を身に沁みて感じた事は忘れ得ない。

故郷を離れた開放感と、当時はまだ色濃く残っていた異国情緒の影響を受け、私は沖縄の様々な空気を能動的に体内に取り入れた。そうする事で、いつか自らも沖縄に溶け込めると信じて疑わなかった。

県内でも地域によって程度の差はあるだろうが、住んで初めて解る閉鎖的な面が存在するという話を耳にする。例えば10年以上経ってなお余所者として正式な自治会員になれないにも拘らず、行事や作業の手伝いには真っ先に駆り出される、とコボしている内地出身者の話を聞いた。この類の話は、日本中どこにでもあるのだろうが、特に沖縄はその傾向が強くはないか。ある時エイサー大会を見物しながら、決してこの輪の中に自分が加わる事はできないと、寂しく感じた事もある。

この様に、学生時代と大人になってからの今とでは、沖縄社会に対する感じ方が実は大きく違う。その原因は自らの中にも求めるべきだと理解はしているが、被支配の歴史を繰り返して来た近代の沖縄が持たざるを得なかった一種のしたたかさが、時代とともに今もなお成長しているという事はないだろうか。

より眩しい陽の光が自らが作り出す陰を更に色濃くする様な、アメと鞭や期待と落胆のコントラスト。政府が繰り返す沖縄に対する仕打ちが、そのしたたかさを促成している事はないか。そして受容と拒絶の心が年輪のように交互に人々の深層に刻まれ、ヤマトゥとウチナーの心の交歓にも影を落とすのだろうか。


琉球新報 2011年11月17日 コラム「南風」より)

貝のアンダースー

干潮で露出した岩や石ころだらけの海岸を歩く。岩のあちこちには、ミナ(長崎の方言名、蜷貝やシッタカとも呼ぶ)が沢山へばりついていて、一つずつ持って来た篭に入れていく。やがて夕暮れを迎えようとする海辺に、穏やかに寄せる波の音と、老いた母や子供たちとの牧歌的な時間がゆっくりと流れていく。以前少し触れた長崎県壱岐島での一コマである。

さて、持ち帰ったミナは何度か水洗いをし、塩をした大鍋で一気に茹でる。その後はめいめいが針や爪楊枝を持ち寄り、一家総出で剥き作業である。集中をしながらも笑い声が絶えない時間だ。やがてあれ程大量にあったミナは、途中での摘み食いも合わさって、貝殻を除いてしまうと驚く程の少量になっている。まだ温かさを残したその剥身を前にしてもグッと我慢、最後の仕上げが待っている。

少量の油をひいて熱したフライパンに、ミナの剥身と、酒、味醂、そして味噌をこの順番に加えて混ぜ合わせる。貝の身に味噌が十分に馴染んだ頃には、何とも言えない良い香りが漂いはじめている。この辺りで、唾を飲み込んだ方は恐らく相当の海好きではないか。もちろん酒のツマミに最適だが、最も贅沢な食べ方は炊きたてのご飯にたっぷり味噌炒めを乗せた丼である。沖縄の夜光貝や高瀬貝は、個人的にはアワビやサザエよりも美味しいと思っているが、それにも劣らない素晴らしく美味しい貝である。

食糧難の昔、沖縄の漁村では貝に味噌を混ぜ合わせて増量する事もあったと聞く。豚のアンダースーは、有難く豚の命の全てを頂く最良の知恵でもあったろう。その二つの長所を取り入れた沖縄産の小貝による、その名も「貝のアンダースー」。ヘルシー志向の現代にピッタリな、沖縄の特産品にならないだろうか。

琉球新報 2011年11月3日 コラム「南風」より)

ミーカガンの泡

「ミーカガンが出来たよ、お風呂で試そう」と、下の娘との入浴。私の手には加工したてのミーカガン。

レースと言う形でサバニに乗って6年、今までは興味がなかった木材の名前に触れる機会が増える。ミーカガンの材料はモンパノキ、サバニの船体は飫肥杉、フンドゥーはイヌマキ、そしてウェークにはモッコクと、必要と興味から次々と知識が身に付く。この様に植物の視点から沖縄文化を考えるのも実に面白い。

木材だけでなく織物や、チャンプルーに代表される食文化にも、琉球の暮らしと独特な植生との共生の完成度や、その伝承密度を再認識する。
ミーカガンを初めて装着した私は、浴槽に頭を完全に沈める。見事に水漏れのない、この古くから伝わる木製ゴーグルの想像を超える完成度に湯船の中で絶句する。修理が可能なミーカガンは一生物だとも言われるが、灼熱の太陽に照らされる熱帯の海で、何十年も酷使され得るシリコン製ゴーグルは現代も存在しない。

「遊びでサバニを漕ぐのか、良い時代になったもんだ」と、サバニレースについて老人が呟いたと言う話をどこかのブログで読んだ。漁の最中、沖で立ち泳ぎをしながらあまりの辛さにミーカガンから涙が溢れ出たと言う記事もあった。また別の過酷さに支配された時代に生きる私はと言うと、浴槽の中で小さな膝を揃え、沖縄の海人文化に惹かれ行く父親の奇行を上から眺めている娘の事を考え、思わず可笑しくなり湯船から顔を上げる。

「お父さん、水はいった?」「いや、全然」「いいなぁ、○○ちゃんも欲しい」「もう少し大きくなったらね」

丁寧に細工をし宝物の様に扱っているミーカガンが、小さな娘には余程良い物に映るのか。空気が抜けない様に沈めたミーカガンをそっと裏返すと、涙の雫の様な小さな泡が二つ、ゆっくりと上がって来て消えた。


琉球新報 2011年10月20日 コラム「南風」より)

帆掛けサバニの魅力

サバニ帆漕レースのスタートである慶良間の島々は、どんな言葉によっても表現し尽くせない美しい海を湛え、そのエメラルドや砂浜の白と対局をなす黒い船体や赤茶けた帆は、この世の物と思えない程の存在感をサバニに与えている。沖縄の海辺に普遍的に存在し人々の営みと密接に関係していたサバニは、他のどこにも存在しない強烈なオリジナリティーを伴って我々を魅了し続けている。

最初に帆掛けサバニを教わった八重山のメンバーはヨット乗りの私に、サバニをヨットの様に操船してはいけないと注意してくれた。両者に根本的な帆走機構の違いはないが、その成り立ち自体が違う事を後に理解した。例えば、普通のセーリングボートと違ってサバニの帆柱は極端に前にある。この違いはサバニが漁船であり、且つ物資を運搬する役目を持っていた事に起因している。特別でない、かつての沖縄の日常の物事が、何と多くの人の心を鷲掴みにしている事だろうか。
私のサバニチームも然り、実は県外にも多くのサバニ愛好家は存在するが、一方で帆掛けサバニの魅力どころか、その存在さえ知らない県民が多い事に驚かされる。本土や海外からの旅行客が喜ぶ観光資源は、実は新しく開発するのではなく、既にあるものを如何に活かすかがより重要なのかも知れない。オリジナリティーの大切さが理解された時に始めて、沖縄の観光産業は次のステージに移行出来るのではないかと思うのだ。
9月4日、40艇の帆掛けサバニが一斉に座間味〜那覇の海を渡る。廃れ失われようとしていた大切なサバニの記憶を、レースという形で残す事に尽力し続ける諸先輩方への感謝の念とともに、琉球が産み育んだ素晴らしき人類の財産に関われている事を至上の幸せと感じているのだった。少しでも多くの人にその姿を見て貰いたいと強く願う。


琉球新報 2011年8月24日 コラム「南風」より)

地域のブランディング

サバニを通じて知り合った米国の船大工・和船研究家のブルック氏曰く、「数ある和船の中でも沖縄のサバニだけが、レクレーション用途で脚光を浴びる事によって復活を果たした幸運な舟である」と言う。日本各地で、乗り手も作り手も途絶えてしまった和船を見て来た氏の言葉は重い。今日のレースイベントが無ければ、操船や造船の技術を理解し継承しようとする私たちサバニ愛好家の活動も恐らく困難だったはずだ。

過日の南城市の帆掛けサバニレースでは、奥武島の漁港をほぼ占有し、随分と迷惑をかけたに違いないが、島の人々は嫌な顔一つせずに私達を受け入れ、またサバニに興味を示した多くの人から積極的に声をかけられた。そんな地域をあげた歓待がレースを後味の良い物にしてくれた。
ところで舟を海に降ろすスロープは基本的には漁港にしか存在しないため、本島中南部で海に出るのには常に苦労する。今では本土や海外からも注目を浴びている帆掛けサバニだが、実は私を含めたサバニ乗りにこの類いの悩みは尽きない。
例えば糸満はサバニの本場であり、かつては海人文化の中枢としてミーカガンに代表される極めて文化的価値の高い漁具を産み育んだ。しかし、そんな糸満さえ今日ではサバニに優しい町ではなく、舟を降ろす場所は限られ保管する場所も無い。新艇のニーズを持つ乗り手も、作り手も居るにもかかわらず、艇庫が無い=舟を持てない=船大工の仕事がない、という負の連鎖がそこにある。民間だけでは解決不可能なこの矛盾を解消する術は無いものか。
揚げたて熱々の美味しい天ぷらで活気づく奥武島は地域のブランディングの成功例だ。いつかサバニを地域振興に活かそうとする自治体が名乗りを上げる日は来るのだろうか?


琉球新報 2011年10月6日 コラム「南風」より)

海辺の暮らし

縁あって海人写真家古谷千佳子氏の作品をじっくり見る機会を得た。氏が描き出す銀海の世界には紛れも無く、私の結婚式に参列する約束を果たさぬままこの世を去った、大好きだった漁師の祖父の姿があった。
少年時代の夏の殆どを過ごした長崎県壱岐での夜、祖母に連れられ小高い丘の中腹に立ち祖父の舟の漁り火を探した。時化の夜に篭一杯の魚を持ち帰った彼が初めて私に見せたあの険しい表情は今も忘れ得ない。身に危険を感じての漁だったのか、そんな祖父を心の底から誇りに思い、格好良く感じた。後に漁師になりたいと告げた単純な私に対する母の反応は、その時代では真っ当な物だったろう。

とあるウェブサイトで、人口が1億人を超える日本に僅か17万人しかいない漁師の平均年齢が60歳以上であり、年間8千人のペースで減少している事を知った。このまま後継者が育たなかった場合、20年後には日本中の海から漁師が消える可能性もあると言う。外交の力関係で鯨を止め、その見返りでもある脂だらけの肉を有難がって競う様に食べ、更には独自に水産資源を利活用する道さえ閉ざされかねない。四方を海に囲まれた我が国に於いてである。
数十年前に母が私に願った安定した会社員としての暮らしは、自然に左右されない都会での仕事を意味していたのだろう。しかしその都会での暮しや政治までもがいつの間にか欧米を志向し、その志向性は我々の深層心理に深く刷り込まれ、それに追従して食文化まで失おうとしている。
海を壊さなければ、少なくとも次世代に選択を委ねる事は出来るはずだ。漁を終えたサバニが夕陽を背に静かに引き波を従え港に戻って来る、古谷氏が追い続けるそんな海辺の暮らしが遺物にならない為にも、食や暮しの価値観を再考する必要はないだろうか?


琉球新報 2011年9月24日 コラム「南風」より)

変わりゆく街並

琉球大卒業後の十数年間は東京で仕事に忙殺され沖縄から遠ざかっていた為、その間の中南部の街の変わり様には後に随分と驚かされ、道の変化には戸惑わされた。かつて入り組んだ裏路地にあった鄙びたおでん屋がいつの間にか大きな通りに面していたり、学生時代の友人の家に辿り着けない事さえあった。オフロードバイクの練習に忍び込んだ天久で今日、夕食の買物をするとは想像も出来なかったし、少し前まで海だった場所を通って広報を担当する糸満海人工房に向う。

さて、日本でこれ程の変遷を短期間に露呈している地域が、他にあるだろうか?140万人の人口に対して登録されている自家用車は90万台と、一家で1台以上の車を保有する沖縄では、恐らく東京の周辺都市の車中心の生活をも凌ぐエネルギーを消費しているだろう。それを後押しするかの様に、急速に変わりゆく沖縄の街並。それはまるで変わる事、モダンになる事の全てが善であると言っているかの様に私の目に映るのだ。
これらの事はやがては便利だが均質な郊外型の大型ショッピングモールの発展を助長し、その結果中小の店舗が駆逐されるかも知れない。今後、風情人情の溢れるマチヤグァーやさしみ屋が、健全に継続する余地は残されるのだろうか?島が近い将来に、特色の無いありふれた一地方都市化していく危惧さえ覚え、日本の地方各所でこの目で見て来たシャッター通りの風景がオーバーラップする。
約30年間通っている那覇のおでん屋の女将は、私にとって三代目になる。今では良くも悪くも観光客で溢れる様になった店だが、女将はそれでも豆腐一丁に至るまで、ひたむきに昔の味を守り続けつつ、新メニューの開発にも余念がない。地元の人間も観光客も、本当に求めているのはそういう沖縄なのではないかと、暫し考えるのであった。


琉球新報 2011年9月7日 コラム「南風」より)

海洋民族の記憶

今日、久末五勇士による130Kmに及ぶ決死の航海の話を耳にする機会は余り無い。帆掛けサバニを求め現地の友人と宮古島を巡ったある夏の日、立寄った久松漁港で次の話を聞いた。
伊原間までの先人の航海が、言い伝えられた時間では不可能だとする意見に反論し久松の名誉をかけ、また80周年という節目も期して、当時の舟を復元して五人で実証航海をしたという。1985年の事である。彼等の航海の成功は言うまでもないが、実際の乗員の案内で見た美しきサバニは今も忘れ難い。

勿論そのサバニは帆掛けで、五勇士の航海を誇張とする説の論拠にはセーリングの要素が欠落していたのだ。
琉球はサバニによって当時は急造都市だった江戸の造船業に多大な影響をもたらしたという。古の海族は、日本の他の地域にはない洗練された海洋文化に裏付けされた技術を持ち、心はバイタリティで満ちていた事だろう。そして江戸との友好的な関係の記憶は、自然と久松の海人にも引き継がれたに違いない。
この様に戦時に自らの命を賭して母国に貢献した県人の気質を物語る例は枚挙に暇がない。例えば数年前、鉄血勤皇隊の事をテレビで知った。当初兵站を担当した少年達は自らの境遇を喜び、誇り、最後は戦闘員として容赦なく敵軍の銃弾に晒された。無論これら戦禍の歴史は沖縄に限った事ではないが、唯一の地上戦や友軍による無言の自決強要、その後の基地問題での日本政府による対沖縄のネゴシエーション等によって、図らずとも沖縄だけが際立ち、そして友好の記憶の一部は不信へとその姿を変えたのではないか。
これからの時代、対米追従に走る政府だけを見るのでなく、隣接するアジア諸国を今以上に見つめた、誇り高き琉球海洋民族としての政治や交易を独自に目指しては如何かと、先人達が問いかけている様な気がする、盛夏の一日だった。


琉球新報 2011年8月9日 コラム「南風」より)

ウチナージラー

大学での講義中、西語の教諭はどことなくラテン系な、英語の教諭は英国紳士的な風貌だと感じていた。環境や生活が人の顔を作るという事は多分にある事に違いない。沖縄を離れ四半世紀経た私の顔はナイチャーそのもの、県出身の彫の深い紅顔の美少年だった友は、今は風貌も雰囲気も立派に沖縄のおじさんだ。
そんな我々40代に共通の三大関心事は、仕事、教育、そして健康だろう。中でも私には、家内の小言を躱して合法的にサバニのイベントで訪沖する為にも沖縄での仕事は不可欠で、結果商談の機会を頂く事もある。そんな中で時折出くわすある違和感が今回の主題である。

それを一言で表現するならビジネススタイルの内地志向と言うべきか。例えば暑い沖縄でダークスーツを着、若いビジネスマンが1億以下の仕事はやらないと得意げに語る。都会的なスマートさ、内地並の事業規模への憧憬を否定はしないが、果たしてそれが沖縄が目指すべき未来の本質なのか?10円1ドルを積み重ねて戦後復興を支えた先人はこの風潮を歓迎するだろうか?大切な事の多くを失った本土の失敗を後追いはしないのか?
沖縄に住む人達が沖縄の風土文化経済に抱かれ沖縄の顔を身に付けていく、そんな自然の流れに逆らい何故トウキョウの顔を第一に求めるのか私には理解が及ばない。沖縄にとって東京はマーケットであっても目標ではないはずだ。例えば昔のサトウキビに替わる特産品の開発や、観光産業を後押しする自然保護こそ今の沖縄に必要だろう。地方の中でも比較的活気がある沖縄は、真の地方中心の世の中を創る為の日本に残された「希望」なのかもしれないのだ。
サバニを取り巻く人々の顔には何故か沖縄と内地の違いを感じない。互いの熱い想いを共有しているからか。そう、顔は変わるのだ。感情を、心根を、優しさを、そして決意や志を映す鏡の如く人の顔は変わる。心が主で顔が従なのだ。

琉球新報 2011年7月26日 コラム「南風」より)

金城哲夫


琉球大学を卒業した後も俄には沖縄を去り難く、辺戸名の漁師の親方に頼み込んで漁の修業に打ち込んだ時期がある。山原の港町での毎日はそれ自体がエキサイティングなダイビング漁を基調とし、且つ毎夜の熱く激しい酒の席。長崎の漁師だった祖父の影響から海と離れられなくなり、従って自然と大学で海洋学専攻を選択した酒好きの私は、いつしかこの漁師町で生活する事を考え始めていた。

ところで内地で暮らす子供の頃の沖縄に対するイメージといえば海洋博やアクアポリスだった。数年前のテレビで見た金城哲夫氏の特集で、彼が企画したサバニの船隊による海洋博のセレモニーが、海洋博による海洋汚染を懸念する漁師の強硬な反対によって幻に終わった事や、うまく方言を扱えないが故に自らの中に疎外感を醸造し愛する故郷から孤立して行った氏の生涯を知った。
均質性(日本)と特異性(沖縄)を同時に求めてしまう島の暮らしの中で、彼の晩年の苦悩は沖縄方言を使えない自らの立ち位置に少なからずオーバーラップする。ふと、私を本土に送り返した漁師の親方が伝えてくれたメッセージは「内地で仕事に成功して、いつかは沖縄と本土の架け橋になりなさい」と言う意味だったのかと、長い時を経て理解に至るのである。
戦時には米軍の本島侵攻の足掛りとなった慶良間〜那覇の海。その海を平和の道に戻す意味を込めたサバニ帆漕レースには毎年40チームが参加し、応援団を含め数百人が出身の区別なく共に沖縄が世界に誇り得る伝統海洋文化に戯れる。
古座間味の浜に各自工夫を凝らした帆をあげたサバニが並ぶ勇壮な情景や、参加者が互いの健闘を称え合う表彰式を、不慮の事故がなければ存命であるはずの金城氏が見たらどう思うかと考え、胸に熱い物が去来する。そして沖縄という地域の健全な発展とは何かというテーマを、改めて自分に問いかけてみるのだった。

琉球新報 2011年7月12日 コラム「南風」より)