幸せに溢れた時間


夏の終わりとともに、公私ともに慌ただしい時間が一気に訪れ、このブログの更新も滞ったままになっていました。一ヶ月間以上エントリーをしなかったのはブログを書き始めてからは初めての事でもあり、心配してご連絡を頂いた皆様には大変申し訳なく、また同時に心から有難く感謝申し上げます。
公私の公の部分に関しては次のエントリーででもご報告をさせて頂きますが、今回は私の部分に少しだけ触れてみたいと思います。

40代男の既に手前にさしかかっている私の弟が、従って40年近い独身生活に別れを告げてひと周りもふた周りも年下のお嬢さんをお嫁に貰う事となり、先週末は挙式と披露宴が行われました。既に独身の友人も周りには殆ど見当たらず、また25人近い従兄弟・従姉妹も2〜3人を除いて身を固めてしまっていますので、親族身内の結婚式に出席する事も10数年以上後にやってくるであろう私の子供達のそれ以外には、そうそう機会はないだろうと思っているのですが、着飾って久しぶりに集う親戚皆の溢れる様な笑顔に包まれた時間と言うものはそれだけで胸が熱くなる様です。


結婚式では、新郎新婦の幸せな生活を願うのはもちろんの事、自らの新婚生活時代の想いを再認識して夫婦の絆を更に深める様な良い副作用もあると思います。が、それにも増して今回は、両親は勿論ですが、弟を始めとして私たち兄弟を幼い頃から暖かく見守ってくれていた叔父や叔母の気持ちを強く感じる事となりました。


私の弟の顔には、今となっては良く見ると判る程度ではありますが、広範囲にわたる火傷の痕があります。それは、まだ弟がよちよち歩きの赤ん坊だった頃の事、裁縫の内職に忙しい母親と弟、そして私の3人で家に居た冬の昼間に起こりました。今はまず見る事もなくなった堀炬燵でお絵描きか何かをしていた私の横にちょこんと座った小さな弟は一生懸命に私のする事を見ています。弟にも増して熱心に暫くの間集中してお絵描きをしていた私はふと、傍らに居たはずの弟が居ない事に気付いて母親に「弟はどこに行ったの?」と訊ねた様に記憶しています。恐らく親ならではの勘なのでしょうが、内職の足踏みミシンから血相を抱えて飛んで来た母親はすぐさま堀炬燵に逆さまに落ちている弟を見つけ出し、ぐったりとしたその体を抱き上げたのでした。その時弟は、炬燵の熱源の部分に右側の頬を長時間接触していたらしく、その部分があどけない小さな弟の顔と両親の心の中に、一生消える事のない傷となって残る事になってしまったのです。


小さな子供を持つ親となった今になってようやく、当時の両親の心中の幾ばくかを理解出来る様な気もする私ではありますが、披露宴の締めの挨拶でその事に触れた父親の謝辞の文言以上に、また当時を思い出して涙を流す母親の姿以上に、この事を改めて思い出してみた今、私の胸を強く打つのは子供の頃の弟の心根の様な気がします。

なぜなら、兄を慕って後をついて来る小学校〜中学校時代の弟の口から、この火傷の事を悲観する言葉を多分私は一度たりとも聞いた事がないのです。

一般的な話として子供はある意味残酷でさえあるため、対象を見つけては集団でいじめる事がありますし、もちろん私もいじめられた事もあればいじめる側に入っていた事もあります。私の弟もその様ないじめの対象になっていた事は想像に難くはないのですが、弟はその様ないじめを悲観する事なく、逆に幼少時代から青年時代を通じて総じて明るくユーモアに富んだを側面を忘れないまま、むしろ沢山の友人に恵まれて今に至っている様に見受けられます。そして、そんな子供の頃の弟の心を影からサポートしてくれていたのが、当時は頻繁に行き来していた私たち兄弟よりも少し年長の従兄弟や叔父・叔母だったんだなあと、今回の結婚式に参列した彼らの笑顔を見て理解したのでした。


もしかすると新婚時代の気持ちの再認識以上に大切な事を、人は実に様々な人に支えられて生きている、当たり前ではあれども普段は中々気付く事の出来ない事を、思い起こす機会をくれた新郎新婦の幸せな前途を心から祈る秋の日なのでした。

トップ写真:余り若くない新郎のもとに嫁いで来てくれた若いお嫁さん。二人の結婚のきっかけが昨年のサバニ帆漕レースの応援だった事は何故か披露宴でも触れられませんでした。遠方からもご参列頂きました皆様、大変有り難うございました。