オガウエガイキハチムモモモン

筑紫哲也氏の番組を見て涙したことがある。各国を歴訪した江戸末期の外国の外交官の記録の中に「この国の人々は、貧しくとも一様に礼儀正しく勤勉で、家々の鍵も掛っていない。何よりこれ程朗らかな子供の笑顔を初めて見た」との、日本に関する記述があったと聞いた時だった。

後の西洋化や昭和の経済成長によって生活は様変わりし、小川や渚は次々とコンクリートで塗り固められた。道行く人々の笑顔は消え、子供ら弱者が犠牲となる事件が多発する、変わり果てた今日の日本。その憂いと悲しみが思わず形となり私の頬を伝ったのだ。我々は何と多くの時間と努力を費やして、大切なものを失ってきたのだろう。

往々にして国も地域も、内より外からの評価が高く、その価値に普段は気付かない。沖縄の場合その顕著な例は海だろう。これには反論があるかもしれないが、海が大切にされているか否かは雨後の茶色い水面が物語っているのではないか。環境保全より経済振興に価値観の基軸を置いた行政は、その拠点としての海辺の開発に余念がない。今なお埋立てが続く海岸に、以前の海辺の暮らしは永遠に戻らない。

西洋文化に憧れ民族衣装さえも形骸化した日本が、自ら背負ったコンプレックスを拭い去る事は困難だろう。今日の帆掛けサバニがそうである様に、失われたものを取り戻す労力は途方もない。文化の均質化を許容する思考の程度は、ローマ字で自分の名前を書いて喜ぶ無邪気な子供と変わらない。

最後回のタイトルは呪文や頓知ではない。例えばウチナーの様に、母音のオをウに、またキをチに変えると方言の発音になる日本語があるが、これは方言の理解の為に私が考案した法則だ。そんな努力が一切苦にならない程、またサバニや方言に限らず、沖縄の文化や自然は素晴らしい魅力で満ち満ちている。


琉球新報 2011年12月30日 コラム「南風」より、一部改変)