海辺の暮らし

縁あって海人写真家古谷千佳子氏の作品をじっくり見る機会を得た。氏が描き出す銀海の世界には紛れも無く、私の結婚式に参列する約束を果たさぬままこの世を去った、大好きだった漁師の祖父の姿があった。
少年時代の夏の殆どを過ごした長崎県壱岐での夜、祖母に連れられ小高い丘の中腹に立ち祖父の舟の漁り火を探した。時化の夜に篭一杯の魚を持ち帰った彼が初めて私に見せたあの険しい表情は今も忘れ得ない。身に危険を感じての漁だったのか、そんな祖父を心の底から誇りに思い、格好良く感じた。後に漁師になりたいと告げた単純な私に対する母の反応は、その時代では真っ当な物だったろう。

とあるウェブサイトで、人口が1億人を超える日本に僅か17万人しかいない漁師の平均年齢が60歳以上であり、年間8千人のペースで減少している事を知った。このまま後継者が育たなかった場合、20年後には日本中の海から漁師が消える可能性もあると言う。外交の力関係で鯨を止め、その見返りでもある脂だらけの肉を有難がって競う様に食べ、更には独自に水産資源を利活用する道さえ閉ざされかねない。四方を海に囲まれた我が国に於いてである。
数十年前に母が私に願った安定した会社員としての暮らしは、自然に左右されない都会での仕事を意味していたのだろう。しかしその都会での暮しや政治までもがいつの間にか欧米を志向し、その志向性は我々の深層心理に深く刷り込まれ、それに追従して食文化まで失おうとしている。
海を壊さなければ、少なくとも次世代に選択を委ねる事は出来るはずだ。漁を終えたサバニが夕陽を背に静かに引き波を従え港に戻って来る、古谷氏が追い続けるそんな海辺の暮らしが遺物にならない為にも、食や暮しの価値観を再考する必要はないだろうか?


琉球新報 2011年9月24日 コラム「南風」より)