東海岸


北東-南西方向に延びる沖縄本島の両側をそれぞれ西海岸と東海岸と呼ぶ。
地政学的なアプローチでなく、あくまでも産業の種類という観点で捉えた場合、西海岸は北谷から普天間、残波岬を挟んで恩納村のリゾートホテルが乱立する一帯を指す観光資源が開発された地域であり、一方で東海岸は与那原を起点に北に向かって中城村〜うるま市、そして金武湾を経てヤンバルに続くどちらかと言えば観光やレジャーのための地域と言うよりも、むしろ石川のセメント工場群に代表される工業地帯というイメージで捉えられる事が多い。

例えば学生時代から今日に至るまで、ダイビングをする為に訪れる海と言えば砂辺や残波岬であり、私が漁師の見習いをしていたのも辺戸名という名護から更に北上した西海岸の漁村である。ビーチパーティの定番だったタイガービーチもその例外ではなく、従って東海岸の海で遊んだ記憶といえば東村安波での数回の漁やレジャーダイビングを除いてはあまりない。唯一、伊計島だけが東海岸でリゾート色の濃い場所かもしれないが、その伊計島でさえも平安座島の石油貯蔵基地を経由してアプローチしなければならない為に、私の中ではやはり工業地帯に隣接しているというイメージが植え付けられてしまっている。勝連半島から平安座島を結ぶ海中道路でさえも、金武湾や中城村沖海域の環境を激変させた人工の構造物として私の目には映るのである。

年末も押し迫った12月半ばのある日、長らく泊港に面した駐車場でお世話になっていたサバニ「綾風」を、地元メンバーの縁もあって東海岸の宜野座村に移設した。

宜野座村と言えば、迷走する普天間基地の移設問題の渦中になっている辺野古の海からわずか数Km南に下った場所であり、辺野古崎の先の海上に浮かぶ小さな平島を望む事も出来るほどに近い。白状すれば、「この美しい海を壊してはいけない」という基地移設反対派の地元住民の主張を聞く度に、東海岸=工業地帯と言うイメージが先行していた私は、果たしてどれ程にきれいな海なのか半信半疑でいた事を否めない。

そんな宜野座の海に帆を張って漕ぎ出したのは、出張の中日の休日。
もし東風に恵まれたならば、伊計島を目指して金武湾を横断しようと計画しての出航だった。あいにくと予想よりも早く南に振れてしまった風に伊計島までの到達は断念せざるを得なかったものの、初めての金武湾には私の貧しい想像力を遥かに超える、見事に美しい海が横たわっていた。


宜野座沖を行く綾風

サバニの上からは限りなく透き通った海水を通して、イノーの豊かな生態系をも垣間みる事が出来る。
まるで赤茶けた帆を高らかに掲げた綾風を歓迎するかの様に水面で煌めく陽の光の一部は私たちを暖かく包み込み、またその残りは海中に達して海をエメラルドに染め上げながら美しいサバニの船体を映し出す。サバニのセーリングポテンシャルを肌で感じようと、一同は漕ぎの手を止めて、ある者は帆を見上げ、またある者は流れる海面に視線を預け、そして皆で静かに風の音を聞く。唐突に、今のこの瞬間を絵にしてタイトルをつけるとすれば「永遠」という言葉が似合うという断片的な思考が、浮かんでは、消える。

金武湾にサバニを浮かべたその日は、いみじくも沖縄県への核持ち込み密約を記した文書が佐藤元首相の遺族の自宅に保管されていた事が判明した翌日の事。外務省が繰返し「存在しなかったか、少なくとも今はない」と主張して来た事を覆す、「お家にありました」という発表の馬鹿馬鹿しさに苦笑した私は、帆走の静寂を爆音でかき消しながら、やがて超低空飛行で海上にいる我々の頭上をキャンプシュワーブに向けて通過する攻撃型ヘリに対して、エークを突き上げたくなる強い衝動に駆られた。
サバニチームの地元メンバーの友人が宜野座での初のサバニの帆漕練習を心配して船を出してくれた。米軍基地で働くと言う彼が呟いた、「辺野古に基地が来れば、もっとうるさくなる」という言葉がいつまでも耳に残った。

東海岸の海にとって、果たして来年はどの様な1年になるのだろうか。

トップ写真:宜野座の舟溜りで出航を待つ綾風