物乞い経済

レンタカーを返却する道すがら、新都心のツタヤに立ち寄る。少し長かった今回の沖縄滞在中の酒の席で、とある人から教わった名護・辺野古への普天間基地移転問題に関するルポルタージュ「アメとムチの構図-普天間移設の内幕-:2008年、沖縄タイムス社、渡辺-豪著」という本を買い求めるためである。
レンタカーを返却した後、空港へ向かうモノレールの中で同書を開いた私は、かつての沖縄での仕事で直接的に知っている政治家や実業家数人の顔写真によって、当時の防衛施設局長の私的メモを骨組みにしたという著者渾身のルポルタージュの中の世界に一気に引き込まれていった。

その前日の事、沖縄市の鄙びたおでん屋で腹を満たし、百軒通りというかつての繁華街の小さなスナックでほろ酔いになった私は、那覇へ帰るために拾ったタクシーの運転手に、「那覇や恩納村のリゾートホテルの宿泊客をターゲットにして、ホスピタリティに溢れる昔懐かしいコザの飲み屋へのタクシー乗り合いツアーでも企画してみたら少しは町もにぎわうのではないか」と、思いつきで話してみた。運転手曰く、かつてのコザの夜の町の繁栄を支えたアメリカ人が戻ってくることしか打開策は無いと思うと言う。直接的に基地に依存し、間接的に日本政府からの補助振興金を足掛かりにしてきた沖縄経済は、過去の繁栄の経験さえもが負の相乗効果として色濃くその影響を残しているのではないか。


辺野古への普天間基地移転のニュースが内地のテレビをも連日のように賑わしていた頃、地元沖縄のとある企業の社長から、「沖縄の経済は物乞い経済である」という生々しい発言を聞いた事がある。
これが基地問題とリンクせざるを得ない振興策の一環の補助金を目当てに動く県の上層部を憂いた物だったのか、或いは自らを戒める何らかの意味での発言だったかはわからないが、太田県政以来、日本政府と高度な政治的ネゴシエーションを強いられる一方で中央に依存せざるをえない沖縄の現実の一面を端的に表していると感じた。

当事者でもない私が基地問題に関して無責任な発言をすべきでない事は重々承知しているが、最大の悲劇は地元住民が目先の補助振興金を前に対峙させられその感情までもが二分させられることであり、この点だけはいかなる種類の論拠によっても論破されることが無い。

以下、この住民間の対立の一部が意図的に生み出された事を如実に示す本書中の一文をご紹介する。

SACO合意後の名護市による振興策の配分をめぐっては市街地の西海岸地域の事業にシフトし、移設先に近い東海岸地域が十分な恩恵を被っていない、との不満が地元区にくすぶっていた。
守屋はこの不満をあおることで、政府案を容認しない名護市から地元区を分断しようと試みる。守屋は、いかに振興策が西海岸に集中しているかを示すデータを結集した資料を作成させ、折に触れて地元区に提示した。


本来は静かで自然に囲まれた名護の町や村々は、数千億という巨額の補助金にざわめき立ち、または1億5千万円とも言われた個人補償金という名の札束で頬を叩かれた。一方で、そんな地元を二分化しているつもりの日本政府は、結局はアメリカの手中で実は祖国を二分させられていたのであり、これに気づく間もなく文中の登場人物は表舞台から色々な形で姿を消していった。


日本国政府、沖縄県、そして米軍の三者の中で、得るものはあっても決して失うものが無いのが米軍である。県土を蹂躙され、人々の生活を踏みにじられるような基地との共存の道を、果たしてこれからも沖縄は模索していかなければならないのだろうか?