肩の力を抜いて

例えば野球の世界でも、ヤンキースの松井の様にバッターボックスで軽く肩を上下に揺するようにして力を抜いたりする選手がいるが、これは極めて重要な事ではないだろうか。
バッティングの場合は本質的にはインパクトの瞬間に最大限の力をボールに伝えれば良いのであり、構えの段階から不必要に力み過ぎる事に何ら良い効果は無いはずである。

久しぶりに訪れた道場での弓の稽古。
弓を捧げ持って徐々に上に上げて行く動作(打ち起こし)に伴って、私の肩も盛り上がって行く。これでは窮屈で小さな射にしかならないため、打ち起こしの時に肩を上げない様に、と散々指摘された事がまだ身に付いていない事に気付く。
久しぶりの今日の稽古では、この肩の事と、その次に大三での狙いに注意して行射しようと決めて2時間を費やす。


次女が撮影してくれた会の瞬間。力み過ぎた肩がお恥ずかしい。


一年生の娘をなるべく飽きさせない様にと、「お父さんが弓をやっているところをカメラで撮ってごらん」と頼んだ射では、やはりまた力み過ぎて肩が上がってしまったものの、久しぶりの的心近くでの皆中。正射必中(正しい射は必然的に中る)とは言えども、中射必正(中った射は必ず正しい射である)とは行かないものだと苦笑いした。


例え駄目な射であっても、皆中は何とも嬉しいもの。


肩の力みの事は、スポーツの世界のみならず、生活の中の様々な局面で意識するべき事ではないだろうか、と思う。

以前、良く人から「お前は首が短い」と言われた。
そんな時は決まって、私の首が短い事で何か迷惑でもかけているのかと思ったものだ。それ以外にも、他人から指摘された私の身体的特徴は多々あるが、ところが最近になってこの首が短いという言葉に対して、そこに隠されたもう一つの意味に気付く事によって、少し認識が変わって来た。

首が短く見えるという事は、力が入り過ぎている状態を表しているのではなかったのか。力む事によって肩の筋肉が硬直し、また肩その物も上に上がってしまう事によって、それでなくても人様よりも短い首が思わず指摘したくなる程短く見えてしまっていたのではないだろうか、と思い至ったからである。

私が首が短いと指摘されていた頃は、常に力を入れ過ぎた生き方をしていたのだろう。
そして今はどうか、というと、やはり仕事でもプライベートでも、少なからず肩に力が入り過ぎているなぁと思い当たる事があり、性懲りも無く反省を繰り返すのであった。

トップ写真:稽古に誘ったところ珍しく久しぶりに道場に同行して来た次女。射を見て何を考え、そして感じているのだろう。