土地神話と海の邦


琉球大学での学生時代、所属していた研究室で飲み会をすると言えば与那原の社交街に教授共々繰り出したものです。普段は実験室にこもりながら、船上から海底に向けて発信した音波の反射記録による地層の解析を行なっている事が多く、それは大変細かい根気を要する作業だったのですが、教授が帰宅する際に我々学生に息抜きさせようと考えてくれた時には、わざわざ実験室のドアを開けて「さあ、今日は疲れたか与那原経由で家に帰ろうかなぁ」と誘ってくれるのです。我々はと言えば、自分たちで飲み屋に行く程の財力もなく、またもちろん教授の粋な配慮に感激し、取っ組み合っている音波探査プロファイルをほっぽりだして研究室を後にしたのでした。

与那原の行きつけのスナック「あこがれ」は今はもう残っていないか経営者が替わってしまっていると思いますが、本当に気の良い女性スタッフが多く、学生同士で激論を交わしたり、稀に乱闘騒ぎを起こしたりする我々(と言っても大概は私だけでしたが)に対して実に優しく暖かく接してくれた様な記憶があります。一度酔いつぶれた私をそのまま店で寝かしてくれた事もあり、朝目覚めた私の枕元には店の鍵が置かれていたほど、そこはかとなく牧歌的な夜の街でした。
与那原を中心に北は西原町から南は佐敷に至る東海岸一帯は、開発や観光地化が進んでいる西海岸と違って、大きなリゾートホテルや商業施設が建ち並ぶ事もなく、そう言った意味で賑わいに乏しい反面、昔ながらの街並や自然が残る土地でもありました。

そんな与那原を久しぶりに訪れたのは、残念ながら社交街にネオンが灯る夜ではなくまだまだ強い日差しが残る昨年の秋の事。私がサバニ帆漕レースのみならずヨットも趣味である事を知った以前仕事でお付き合い頂いていた沖縄の方から、近くにあってほぼ休眠状態になっているマリーナを活性化させる方法はないものかと酒の席で雑談混じりに相談されたからで、そのマリーナの見学に向かう道すがら同行していた仕事の仲間に昔の面影を強く残す飲屋街を紹介した時でした。


公共工事が雇用確保の主要な策でもある沖縄は、時間を空けて訪れる度に新しい道路が出来ている事に驚かされる事があります。与那原の社交街を抜けて、国道に出たところ、見慣れない道が海に向けて延びています。正確に言えば元は海だった筈の場所に道があると言う事になりますが、その先には広大な土地が広がっていたのです。それは昨年の事ですから今では状況も随分変わっている事だろうと思いますが、その広大な土地には建物がまばらにポツンポツンと建っているだけで、運転する私や同行の仲間の頭には「ここは一体何の為の土地なんだろう?」といった疑問が浮かんだのです。



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あれから既に1年近くが経過しているので今では少しは状況が変わっているとは思うのですが、そんな東海岸の埋め立て問題が再度クローズアップされる事になりました。前述の埋め立て地から暫く北上した沖縄市の泡瀬沖の埋め立て問題で、地元沖縄市の東門市長が「継続は困難」と判断した事に対して、沖縄総合事務局と県が署名代理人を仲井真県知事に変更して計画を進めようとしている問題です。今回の場合は干潟の自然環境保護問題に加えて、隣接する地域に米軍の通信施設があり、沖縄市は新たな基地の提供になりかねないとの判断から反対を表明した事に対して、地元の意向を無視する形で県や国が事を進めようとしているとの批判が上がっている様です。そもそもこの署名行為とは、米軍施設の保安水域部分の共同使用協定に対するものであり、沖縄市の姿勢はもっともなものである様な気がします。

この問題は地元でも賛否が分かれているようでもあり、従って尚更外野から余り物を言うべきではないとは思うのですが、この様な結論ありきの議論は全く不毛であると思うのです。


私が普段週末に通っている三浦海岸では、対岸に作られた施設が原因と考えられている野比や津久井浜の海岸浸食が止まらないといった現象が起こっており、こういった事例を身近で見聞きしている私としては、結論ありきであるが故に尚更、この問題に於いて本当にきちんとした環境アセスメントが行なわれたか否か、強い疑問が残ります。一旦破壊した自然は元には戻らないのですから。


さて、話はすっかり戻ってしまいますが、あの頃のスナックあこがれの女性スタッフも今では随分お年を召された事だと思います。今でも元気でお過ごしなのだろうかと、どこか郷愁にも似た感覚とともに思い起こしてみるのでした。



(08年7月27日追記)ダイバーでもある友人(先輩)が、時を同じくしてこの問題に触れていました。皆それぞれの考え方や立場で地域の事を考えている、それ故に尚更「結論ありき」の議論は許されないと強く思うのでした。


トップ写真:佐敷にある件のマリーナから中城湾を望む。