悲しみの残骸、前提とバランス

マリーwithメデューサ、紫、コンディショングリーン.....。


1983年に私が初めて沖縄を訪れた頃は、ベトナム戦争の頃に活躍した沖縄のハードロックバンドの余韻が色々な形でまだ残っている様な時代でした。その頃に出版された、Aサインデイズ〜喜屋武マリーの青春〜(利根川裕著、南想社1986年発行)の中の喜屋武幸雄のインタビューに当時の様子を垣間みる事が出来ます。

コザのAサインから出発したロックは、要するにアメリカさんに受け入れられるロックですよ。彼らは沖縄人を虫ケラと思っていたから、下手なバンドが立つと、ビール瓶を投げたり、パーンと物が飛んでくるわけです。(中略)アメリカさんなんて大嫌いですよ。みんな嫌いです。しかし、アメリカさんにくっつかなければメシが食えない時期だったんですよ。



ベトナム戦争時代のドロドロした中で、麻薬やって、酒をくらって、入れ墨したでっかい野郎が「おれは明日死んでゆくんだ」といってポロポロ泣く。「死ぬんだから最後にお前らの演奏聞かしてくれ、マリーの歌を聴きたいよ」ともう酒でベロベロ。ところが酔えないですね、恐怖で。死んでいっちゃうという恐怖で酔えないんですよ。


私は大学生になって暫くして、再結成した紫の野外ステージを一度だけ見た事があります。激しくうねるサウンドの重厚さやステージを中心にして広がっていく独特の空気を、20年以上を経た今でも鮮明に思い出す事が出来ます。同じく沖縄で見たB.B.Kingのそれよりもずっとアメリカ的な、そして何処か退廃的な諦めにも似た匂いを発散する、それでいて圧倒的なステージでした。
実は、私は高校生から大学生にかけて一時的にミュージシャンになりたいという漠然とした夢を持っていた事があったのですが、そんな曖昧な考えはあの紫のステージによって「ああ、これは歯が立たない、自分には無理だ」と、粉々に粉砕されてしまったのでした。


さて、既に喜屋武氏のインタビューに出て来るAサインの事を知らないという世代の人も多いと思いますが、Aサインとは在沖米軍が衛生面その他のチェックを行なった上で、軍関係者に対する商売をしても良いという認可(approval)を与えた店舗の証明書から来ている言葉です。今ではすっかり様変わりをしてしまいましたが、コザの街のゲート通りやセンター通り(現在は中央パークアベニューと改名)は、20数年前はまだAサインバーやライブハウスが建ち並ぶまさにアメリカの様な町並みだったのです。


現在もなお移設問題に揺れている普天間の空軍基地の目の前、普天間交差点近くに、実は学生時代に足繁く通ったAサインバーがあります。当時の客層は外国人と日本人の割合が半々であり、その後は徐々に日本人の割合が多くなって行くその店のある意味での過渡期に学生時代の何度かの夜を過ごしたことになります。既に当時はベトナム戦争も沖縄のハードロックも希薄な“余韻”として残っているだけでしたので、戦地に赴く兵士が最後の沖縄の夜を過ごしているという様な事はなく、アメリカの雰囲気が溢れる店の中で時には気の良いアメリカ人と酒を交わしたりしたものでした。
1990年の少し前、卒業間近に何度か訪れた基地の街金武には、さびれた飲食店街が戦争の“余韻”が濃厚に残っていました。その余韻とは、一昔前は日本中の何処よりもアメリカ音楽の最先端だった街に流れていたハードロックの残響であり、兵士達の死への恐怖や生への希望の残骸であり、基地に経済の拠り所を持たざるを得なかった当時の金武の人達の諦めの溜息であり、そして戦争と言う行為が作り、壊していった街の歴史でもありました。


戦争や基地をとりまく言葉も国も立場も違う人々は、ただ同じ時間を共有しているという唯一の接点においてその街で出会い、ハードロックの大音響の中で、私には想像もできない程の悲しみや、希望をぶつけ合ったのでしょう。


もちろん私の中には暴力や横暴を肯定する気持ちは微塵もありませんが、特に酒類を供する飲食店等では、人は喜び笑うだけでなく、怒ったり泣いたりと様々な形で自分の感情を表に出してしまう物であり、ある程度は店側もそういった事に起因する小さなハプニングには備える気持ちを持っている事の方が多いと思います。心が踊り、場合によっては興奮を誘発するハードロックのコンサート会場でも同じ事が言えると思います。すなわち、これらの場合は物やサービスの提供側と客との間に暗黙の前提やバランス感覚の様な物が存在していると思うのです。
そして沖縄の人達の場合はこの無意識の前提の中で、心の中では恐れ、場合によっては憎みながらも、戦地に赴く兵士に対して望む望まないに関わらず、酒の場による癒しや音楽による励ましといった無形の物を与えていたのだと思うわけです。まさにこれは住民レベルでの外交といっても良いでしょう。


一方で、昨今の沖縄や横須賀での暴行や余りにも理不尽な殺人事件には、あの頃の様な前提やバランス感覚が欠如している事は言うまでもありません。人間が本来、他者の悲しみを理解し、共有出来る部分を共有して助け合うものだとすれば、一連の事件は喜屋武氏が言う様に他人を虫ケラと見ているとしか思えないのです。米軍基地の在り方については日米間の複雑なパワーバランスが影響する高度に政治的な問題である事は理解していますが、悲しみの残骸に学ぶ事も出来ず、魂を揺さぶる様なハードロックも存在しない現在、抜本的な変化がない限り日米間の人の感情に取り返しのつかない禍根を生み続けていく様な気がしてなりません。

トップ写真:普天間BAR CINDY。ウェブサイトによれば当時のスタッフも健在で元気に営業されている様です。初めて店に入った時は「何があるか解らんから、(直ぐに逃げれる様に)なるべく出口に近いイスに座ろう」と友人と話した事を思い出します。