(続)あの日に帰りたい


ここ一週間程、会社の新製品発表に向けたプレスリリースを始めとするプロモーションに忙殺されており、なかなか途中まで書きかけていたエントリを完成させる事が出来ずにいました。
最近教えられて始めたGoogleによるアクセス解析サービスが実に面白く、これにハマっていたのももう一つの理由です。
このサービスの場合は、利用者が明示的に自分のサイト中のhtmlファイルに“ある情報”を書き込まない限り正常に動作しないため、従って利用者があくまでも能動的にGoogleに自分が管理するサイトのアクセス状況を知ってもらい、そして分析してもらうという訳ではありますが、これほど高機能なウェブアプリが無料で提供される事に驚くと同時に、当社のサイトに関連する情報がGoogleから見れば丸裸同然であるとも言える、何とも複雑な気分にさせられます。

さて先日、あちこちのウェブサイトを見ていて、大変懐かしい車の写真を見つけました。その写真に写っていたのは「スバル360」。世界のマイクロカーのコレクションの一部として紹介されていたその車は、今思えばなるほど確かに大変小さい車です。そういえば、私がスペインに住んでいた、と言うよりもむしろ放浪していたと言った方が語弊がありませんが、その当時に現地で買った車もスバルに大変良く似た「SEAT600」という車で、同様に小さい車でした。確か、SEATはイタリアのFIATの現地法人だったものが、その頃にドイツのフォルクスワーゲンに売却されたと記憶しています。


往年の名車「すばる360」

余談にはなりますが、ルパン三世のアニメに出てきそうなスバル同様に小さくて丸い形のその車は、ドアが前開きに開くのは良いのですがドアとボディーの間のストッパがゴム製であったため、一度ドアが風に吹かれて勢い良く開き過ぎた為にゴムがちぎれてしまい窓ガラスが粉々に割れてしまったり、また走行中にシフトレバーが折れてしまい暫くの間ずっと2速にギアを入れたままだった事等が懐かしく思い起こされます。当時の私にとってその車は、唯一の移動手段である以上に、家財道具全てを格納しておく場所でもあり、何よりも家だった訳ですから本当は笑い事ではなかったのですが。


毎日の様に罵声を浴びせつつも決して憎む事の出来なかったSEAT600。家財道具とギターを詰め込んでイベリア半島を走り回ってくれました。ちなみに、ラジエタ用の水も決して欠かす事の出来ない必需品でした。

私がスペイン中を旅して廻ったSEAT600の半分程度の排気量しか持たない日本のスバル360は、病弱だった子供の頃の私を、車を持っていなかった両親が仕事が終わった夕方に数十キロ離れた京都市内の病院に連れて行く為、隣の家からその都度お借りてしていた大切な車でした。家族4人を乗せて「老の坂峠」をぐんぐん上って行くパワーを持ち、SEATの様にシフトレバーが折れる事など有り得ない、格好良くて速い車だったと記憶の片隅に今でも残っています。大変苦痛が伴う京都市内の病院での治療と自宅への帰り道で両親が食べさせてくれたラーメン(確か8番ラーメンと言う不思議な名前でした)の美味しさが今でも郷愁の様に甦って来るエピソードです。普段は車に乗ったり外食する機会が殆どなかった当時の我が家でしたから、私にとっては通院の嫌な気分を消し去って尚余りある夜のドライブだったのです。

以前、テレビ番組をモノラルのカセットレコーダで録音した津輕少年の話を書いた事がありますが、昭和40年代後半の一般的な家庭はまだまだ今の様に物で溢れてはいませんでした。ましてや子供の玩具にまでお金が行き届くはずも無く、従って例えば小学生の低中学年の頃に、野球版を自作する事が流行した事も覚えています。

そのようにして家族と暮らしつつ少年時代を過ごし、そして人間の欲望をかなえる様に物の無い時代から物が溢れる時代への移り変わりを体験し、いつのまにか3人の子供達と43回目の夏を過ごした私ですが、このブログやニュースレターという形でに折に触れてここ数年来文章を書き連ねていると、毎年の様に現代の世相が如何に荒廃しているかと言う事を痛感させられる事になります。子供や弱い人間が犠牲になる事件をあげれば枚挙にいとまがありません。

物に関して言えば、毎日毎日何十通も新製品が出たこれは安いといった主旨の電子メールを受け取る、そしてある程度の物であれば多少の無理をすれば購入できる、それは果たして本当に幸せな事なのでしょうか。今現時点で、私が欲しい物が無いと言えば嘘になりますが、液晶大型テレビや少し処理速度の速いコンピュータや、ちょっとだけ見栄えを良くしてくれる服や、座り心地の多少良い車が、本当に心の底から欲しいかと問われたら?果たしてどう応えるでしょうか。

恐らく15年程前の事だと思いますが、テレビで筑紫哲也のニュース23と言う番組を見て、はっと気づくと知らぬ間に涙が流れていた事があります。ニュースの論説を見て涙したのは後にも先にもこの時だけです。
それは恐らく当時のアメリカかヨーロッパの外交官が、江戸末期から明治の日本の庶民の生活をレポートした本の内容を聞いた瞬間でした。
世界中を旅して来たその外交官は、「貧しい下層階級の人でさえも普通に読書をしているこんなに勤勉で頭の良い国民を見たのは初めてだ。また、どの家にも鍵がかけられていないのは驚きである。さらに何と言っても子供達がこれほど朗らかで幸せそうな笑顔をしている国を私は知らない」という様な事を書いていたそうなのです。
ぼろぼろになった衣服に身を包み鼻を垂らしながらも、はじける様な笑顔で時代劇で見るイメージの町中を遊びまわっていた、今から見ると粗食と言われてしまう様な食事を何よりも有り難がって食べていた子供達やそれを見守る家族の団らんの情景が、一気に私の涙を誘ったのでした。

親が子を殺し子が親を殺し、欲に支配された一部の人間が凶悪な犯罪を犯すと言う事は、昔の世界にもあった事なのかもしれませんし、命の重さという点では現代よりもむしろ昔の方が残酷な世界だったかもしれません。しかしながら、当時の子供の笑顔や、その笑顔をはじけさせる環境そのものがこの日本から失われている事は紛れも無い事実なのです。
先の、ケーブルテレビ情報センター様での講演時にも申し上げた事ではありますが、戦争からの復興や近代化と言う旗印の下で、日本中の町並みがコンクリートで塗り固められて行ったのはここほんの50年の事です。

前回のエントリーでは、行商と言う観点から思いついた事を書き記してみましたが、本当にこのタイトルで書きたかった事は、少々不便でも、少々貧しかったとしても、日本が日本らしく、子供が子供らしくあった、せめて50年前の様な時代を現代に築きたいと言う、そういう思いなのでした。

写真:Googleアクセス解析サービスによれば、実に有難い事に私のブログには日本中からアクセスして頂いている様です。当社のウェブサイトと全く同じ傾向がありますので、この様な社長ブログでさえも会社のパブリシティに少しは貢献できている様です。