あの日に帰りたい


私も決して嫌いではない、松任谷由実の同名の曲に関連するエントリーではありません。もしあの名曲に何らかの関連性を想像してお越し頂いた方には申し訳ありませんが、全く別の内容ですのでどうぞお許し下さい。

その昔高校生の頃に「蒲田行進曲」と言う、まだ思春期の私からすると輝くばかりに美しい大人の女性であった松坂慶子が出演していた映画を見る事になりました。今考えてもその理由は良く解らないのですが私が通っていた高校での何故かちゃんとした行事の一環としての鑑賞会だった憶えがあります。そして、何とその映画のある1シーンを見て映画館で思わず声を出して笑ってしまったのです。

暗く静かな映画館で一人大笑いしたのはその時と、大学時代の今はなき首里劇場と言う三流ラブロマンス映画館での余りの馬鹿馬鹿しさに大笑いした時の二回だけだと思います。ちなみに首里劇場の際には、夜に男子寮に戻った折に同室の大学6年生の先輩から「今日、映画館で大笑いしている馬鹿者がいた」と聞いたとたん、「先輩も居たんかっ!?」と、まさかのニアミスに冷や汗をかいたという後日談付きです。

話は戻りますが、まだラブロマンス映画館に通えない高校生の私が映画を見て笑ってしまった訳は、平田満松坂慶子を兄貴分の銀ちゃんの都合で奥さんに貰う事になり、映画スターとして九州の故郷に凱旋帰郷するシーンで使われていた駅が、私が毎日毎日通学で憂鬱な気分で通う山陰線というJR線の途中、山間の保津峡と言う駅だったからです。同時に、なるほど映画って言うのはこういう風に作るものなんだと関心もしたものです。思春期真っ只中だった私にとって、今でも、新撰組の階段落ちのシーンよりも何よりも、その凱旋シーンと思わず身を乗り出してしまった銀ちゃんと松坂慶子のラブシーンの二つが強く印象に残っている映画です。

さて、43歳になった私は女房に最も相手にされない時間帯である日曜日の深夜に、NHKアーカイブスの「にっぽんくらしの記憶“ある商戦”・1969年制作▽日本の素顔“行商”・1961年制作」という番組をたまたま見る機会を得ました。前者は私が幼少期、後者はまだこの世に生を受ける数年前のテレビ番組です。
そこでは、小さな商店が大規模商業施設に如何に対抗するかという古いようで新しいテーマと、富山の薬売りを始めとして、東北と北海道の間を青函連絡船を使って米を(二俵も背負って!)運んで生計を立てる人たち、そして千葉の野菜を東京に行商に来ている女性達の日常というもう一つのテーマが描かれていました。
それから50年近く経った今日では、その当時のような行商人の姿はもう見る事も出来ませんが、疲れて眠る家内の横で明日の仕事を気にしつつも、決して映像も綺麗ではない白黒の、それでいて当時の行商人たちの息吹が聞こえてくる様な画面に思わず見入ってしまったのでした。

現代では訪問販売というと、どちらかと言えばお年寄りから金を騙し取るというイメージが強くなってしまっている世知辛い世の中ですが、当時は田舎の新鮮な野菜を直接消費者に届ける、或は使った分だけ薬代を回収すると言う、人と人とのコミュニケーションや信頼が大前提の牧歌的な商行為であると同時に、一方では人力で商品を消費者に届けると言う肉体を酷使する商いでもあった事が良く解りました。

もっとも現代でも軽トラックを改造して、食料品はもちろんの事、メロンパンや弁当を販売に来る行商スタイルは健在ですので、これ以降は、他の地方から都市部に対して商品の流通経路となっていた行商の形態のみを指す場合に「都市向け行商(人)」と呼ぶ事にします。

番組中、野菜の都市向け行商のシーンでは、都会暮らしのおかみさんが「新鮮なものが届くので、町の八百屋より少々高くても買っています。また、今までの付き合いもありますから安心です。」とインタビューに応えていましたが、半世紀近くの時間を経て今なお食材購買の際の原動力でもある「新鮮と安心」と言う、肉体を酷使する事も無い現代においても未だに一部の企業活動によって頻繁に破壊されてしまっている「信頼」がベースであった事からは現在の企業人も真摯に学習する必要があるでしょう。

生産者の顔が見える、という意味では最近では大手スーパーが野菜のパッケージに農家の方のイラストや顔写真を印刷することによって、見知らぬ生産者とはいえ実名で商品を提供しているからには安心であるかの様な販売方法をとっている事も日常的に目にする様になりました。決してそれらの全てが捏造や嘘であるとは思いませんが、それでも50年前の行商人との信頼関係と比べた場合はより希薄である事が明白で、更に事の真偽を調べる術は基本的には消費者に与えられていません。

一方では余り知られていない事でしょうが、平成の市町村大合弁と平行して行なわれた農業協同組合の大合弁の結果、合弁後のパワーバランスを少しでも優位にしたい農協側の意向によって、設備投資の為に農協から正当に借り入れをしている農家が返済を不当に強いられた結果として自殺が相次いだと言う事を聞いた事があります。また、不作豊作といった天候に左右される要素に関わらず、大手スーパーとの契約によって“顔が見える農家”が事前の契約よって苦しめられていると言う話も耳にする機会があります。
私は経済の専門家ではありませんので決して偉そうな事は言えないのですが、現代の大手スーパーを消費者への販売拠点と位置づけたビジネスモデルでは、いずれ生産〜流通の何処かに何らかの歪みを生じさせるものなのかもしれないと思う訳です。

実は私が勤める会社では、「生産者と消費者をダイレクトにマッチング」する事によって、スーパーマーケットや大規模な商品流通の世界では量れない、独自の価値感に基づく独自の商品の流通と人間の交流を模索したいと計画しているのですが、もっともっと綿密に計画する事によって最低限でも昔の都市向け行商を超える必要があると思うのです。この事については、何れ詳しく触れる機会がある事を願っています。

京都市内の高校に山陰線を使って通う思春期の私は、実は当時まだ僅かながらに残っていた都市向け行商人を記憶しています。


私の記憶にある海産物の行商人のイメージ。国土交通省「第4回 道と文化を語る懇親会議事抄録」より

恐らく日本海で採れた魚介類を、周りを山に囲まれた丹波や京都に電車を使って運んで生業を立てている老婦人達を、通学の合間に良く見かけたのでした。腰が曲がった彼女達が運ぶ空になった発泡スチロールは何とも生臭い匂いに満ちており、同じ車両に乗り合わせた際には友人とともに、公共の交通機関で異臭を放つ大きな荷物を運搬するのは如何なものかと、あからさまに非難の眼差しを注いだ様に思います。そして、その時の私の態度が果たして正当なものだったのか否かについては、実は今でも判断を付ける事が出来ずにいます。ただ、私自身が今日に至る「近代化?」の流れに喜んで身を置いていた事は事実です。魚だけでなく田舎臭い事を敬遠し、スマートで都会的なものを嗜好するのと同じ様に。

ITを使って生産者と消費者を結びたいという会社の計画を考えついた事は、もしかしてその時に立ち戻って考える様にとの、何処かからの誰かの声に導かれているのかもしれないとも思えます。決して、学生服や背広に身を包んだ乗客と目を合わせる事をしなかった車中の都市向け行商人の彼女達に、今更ながら出来ることなら話を聞いてみたい、あの日に帰ってみたい、と叶わぬ思いを馳せてしまうのでした。
そして、何ヶ月か前のエントリで触れた石垣島の山羊料理・牛そば屋のご主人が「時間が、地域固有の、人間本位のゆったりとした生活に沿って流れていた、そんな昔に戻したい」と仰っていた事を、ふと思い出してしまいました。

トップ写真:自宅付近の銀杏並木はようやく季節に追いついてきました。この日は秋晴れの元、息子が所属する少年野球チームの試合が行なわれました(1-6で敗退)。