師匠 山城善勝 〜歴史から学ぶと言う事、歴史を解釈すると言う事(その3)〜


昨年から出場させて頂いているサバニ帆漕レース。初回のエントリーの相談をさせて頂いたおりに、事務局の方から次の様な話をお聞きしました。

「座間味は、古くは琉球と中国との貿易の中継拠点であり、中国への航海自体が危険で命がけでもあった当時は、往路は見送りの人たちに応えるべく身に纏った正装を長距離航海向けの衣服に着替える場所であり、復路においては無事の帰還をいち早く首里に伝える為に狼煙を上げる場所でもありました。
一方、第二次世界大戦では米軍が最初に上陸した島でもあり、多くの犠牲者を生んだばかりか、中国との交易時代には平和を象徴していた那覇までの航路が、沖縄本島への侵攻の道になってしまったのです。座間味〜那覇間で行なうサバニ帆漕レースは、その航路を再び平和の道に戻すと言う意味も併せ持っているんです。」

平和の船、サバニ。従来から武器を持たず、代わりに楽器を携えていた琉球の人々。そして、侵略や戦争に蹂躙され続けて来た美しいサンゴ礁の島々。

一連の教科書検定問題で、沖縄の戦後がまだ終わっていないという現実を突きつけられた、そんなある日、何気なしにウェブサイトを流し読みしていてビックリする情報を見つけました。

私が大学を卒業した後の数ヶ月間お世話になっていた海人(うみんちゅ=漁師)の親方が、普天間基地の移転に伴って新たに基地が建設されようとしている辺野古で先頭に立って反対運動を繰り広げており、この事自体は本人から聞いて知っていたのですが、何とそのスローガンが「かっちゃんTシャツ」として販売されていたというのです。
そのスローガンとは、「あの沖縄戦がおわったとき 山は焼け 里も焼け 豚も焼け 牛もやけ 馬もやけ 陸のものは すべて焼かれていた 食べるものと言えば 海からの恵みだったはず その海への恩がえしは 海を壊すことではないはずだ 海人 山城善勝」。
大学に在籍していた頃から親交があり、卒業後は暫くの間寝食を共にさせて頂いた親方の事を普段は勝さん、たまに酒を飲んだ時などは師匠と呼ぶ事もありましたが、彼の人となりを知っている私はこのスローガンは間違いなく師匠の言葉であると感じました。


ネット上で見つけたかっちゃんTシャツの背中側。今でもまだ販売しているのでしょうか...。

漁師町での生活はそれ自体がエキサイティングなダイビング三昧であり、酒を飲むと流血騒ぎ寸前のハプニングが起きかねない様な大変楽しい日々でしたので、次第に漁師の生活に引き込まれて行きつつあった私ですが、その私に対して勝さんと当時の奥さんは「将来性のない漁師になる事など考えずに、きちんとした仕事につきなさい、そして出来れば沖縄と内地の架け橋になる様な人になりなさい」と私を本土に送り出してくれたのでした。

さて、琉球大学進学から始まって様々な局面で沖縄と関わる事になった私ですが、子供の頃に抱いていた沖縄に対するイメージはというと、何と言っても海洋博のアクアポリスでした。大阪万博太陽の塔同様に脳裏に焼き付いてはなれない光景だったのです。
それから10年以上が経過し、晴れて大学に進学した私は二度程アクアポリスに行った事があります。その時の印象は子供の頃に抱いていたものとはほど遠く、「ふーん、だから何?」程度の極めて軽薄な、ましてや感慨も意味さえも無く、それはただの錆びた異質な海上の建造物でした。今では少しは状況も変わっているのでしょうが、海洋博記念公園の周囲には、既に朽ち果て始めたホテルの残骸が散見された事も覚えています。

来場者数が予定の500万人に到達しなかった事一点をもって、沖縄海洋博覧会を失敗だったと言う事は少し乱暴の様な気もします。税金125億円を投入してアクアポリスを建造する事に意味があったのか否かという議論は別にしても、海洋博によって、そもそも関心が無かった沖縄に目を向けた人もいるはずです。
但し、海洋博に伴う乱開発とそれによってもたらされた環境破壊、そして賛成派と反対派の現地住民の衝突を考えるに、既に、今日の沖縄が抱える諸問題や確執の基本路線はこの頃に土台が出来上がったと言えるのではないかと思うのです。

そして、その問題に自ら飛び込み、苦悩の日々を送った後に37才と言う若さで不慮の死を遂げたのが、ウルトラマンやウルトラセブンの脚本家として有名だった金城哲夫氏でした。
数年前に彼の生涯を特集した番組も放映され、インターネット上でも多様な情報を得る事が出来ますのでここでは余り多くに触れる事はしませんが、彼の仕事のモチベーションの殆どが内面から発生する、沖縄と本土の架け橋になりたい、という気持ちであった事は紛れの無い事実でしょう。

彼が企画したサバニの船隊による海洋博のオープニングセレモニーが、海洋汚染を懸念する漁師の強硬な反対によって幻に終わった事、沖縄復帰時の米軍削減案に関する発言が自衛隊擁護と誤解されて非難された事などは、そんな彼のデリケートなモチベーションを破壊するには十分すぎたのかもしれません。
裕福な家庭で生まれた金城氏は標準語で育てられ、高校からは東京で暮らしたが故に沖縄方言を上手く操る事が出来ず、沖縄に戻った後に沖縄芝居を手がけようとした事さえもが彼の心の拠り所である故郷を更に希薄なものにしたのではないでしょうか。


2007年サバニ帆漕レース、多くの人が見守るスタート直前の模様

沖縄の健全な発展を願いつづけた方言を上手く喋れない沖縄県人だった金城哲夫氏、そして彼の万分の一にも及ばないかもしれませんが同じ様な理想を持っている、同じく方言を喋れないヤマトンチューの私がここにいます。もし金城氏が今でも存命で、多くのヤマトンチュの参加も得て40艇ものサバニが立ち並ぶサバニ帆漕レースのスタート風景を見たらどの様に感じるのだろう、と思うとしみじみと胸が熱くなるのでした。

次回の沖縄訪問時には、ヤンバルまで少し足を延ばして久しぶりに師匠と一杯飲んで来ようと思います。

トップ写真:在りし日のアクアポリス。写真は内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所ホームページ(http://www.dc.ogb.go.jp/hokkoku/yan_koku/05fukki/102.html)より。同サイトには「やんばる国道物語」等、興味深いページがあります。