日向灘を南下して


海洋調査船を持たない当時の琉球大学理学部海洋学科では、長崎大学の調査船による共同の海洋調査実習や、石油公団の調査補助のアルバイトを単位として認める措置によって、学生が積極的に海に出る事を奨励していたのかもしれません。

大学一年次、しかも入学して早々の5月に行なわれた石油公団の高知沖の調査航海に応募した私は、千葉の港から調査船「白嶺丸」に乗船し、貴重と言う言葉で表現してしまうには不十分極まりない今でも忘れない数々の経験をしました。あまり本エントリの内容とは関係ありませんが、白嶺丸は年末恒例の紅白歌合戦の放送に向けて「氷山は白かった=白勝った』というメッセージを南極から送った事があると当時の船長に聞いた事を今でも覚えています。
デスクワークよりもフィールドでの調査が性にあっていた私ですから、まさにその白嶺丸での南極航海や、ドイツの調査船による東シナ海での熱水鉱床の調査等々に乗船する事になった結果、大学を卒業する時には4年間のうちの1/7以上を海上で過ごした計算になるほど、好んで海に出る事になりました。

その高知沖の最初の航海の最中、自分の居室のドアに「一等航海士」と紙に手書きで作ったプレートを貼り出してみたり、夜中の当直中に船酔いした時には嘔吐を誰にも悟られたくないばかりに荒れ狂う時化のデッキに一人出て用を済ませたりと、今思えばとんでもない行動さえも平気だった若かりし18歳の自分に今更ながらも赤面してしまいます。

そんな、俄船乗り気分で入港したのが、宮崎の油津港。

「お兄さん何処から来たの?」とカウンター越しに問いかけるお店のママさんに対して、その時の私は身も心もずっと子供の頃から憧れていた船乗りになりきっている訳ですから、「時化の海を超え、今日陸に上がったぜ」みたいな事をまだ抜けきらない関西弁で答えた様な記憶があります。

さて、訪問から少し時間が経ってしまった感はありますが、今回は残念ながら船で荒波を超えるのではなく、従って船乗り改めビジネスマンとして、大分からJRの「にちりんシーガイア号」でその時以来25年ぶりの宮崎訪問と相なりました。大学時代の旧友の取り計らいで、同県のCATV局の社長への面談の機会をもらったのです。


雨の南国宮崎駅。陸路も中々良い物です。

余り触れたくもない記憶なのですが、実は一度、私の出身地の地元の偉い方に仕事でお会いする事があり、またその面会を手配してくれたのが最終的に実の母親だった関係で、何とこちらも別の意味で生涯忘れられない「母親同席のビジネスミーティング」を経験した事があります。お母さんに仕事について来てもらう、という生半可なマザコンでさえもひれ伏す様なその会議は、冷や汗を滝の様にかきながらも無事に終える事が出来た訳ですが、今回はそのCATV局の面談を設定してくれた旧友が、社長の以前の部下であった事もあり、「友達同席のビジネスミーティング」となってしまったのでした。

いつに無い緊張と違和感のせいか、或は心の底から私に対して気を使ってくれる旧友の気持ちを痛い程感じつつのミーティングだったが故なのか、終始自分のペースを掴みきれないままに面談は終了してしまいました。

しかしながら、そこはプロのビジネスマンでもあり小さいながらも会社を経営している身でもある訳ですから、最低限の当方の意思は伝達し、そして少なからず当方の主旨はご理解頂いたとも思っています。そして当社が、コミチャンの全国流通を事業の柱としている事、少なからず行なって来たマーケティングの結果として地方のコンテンツを渇望している潜在的な視聴者層が必ず存在する事をお伝えし、当社のネットワークへの参加をお願いする所までには行き着けた訳ですが、その社長からは大変興味深いお話を聞く事になりました。

社長は、放送が従来の民放に加えてデジタル時代の新たな放送の枠組みの浸透や、CATV局のサービスメニューの充実によって、多チャンネル化された放送網をリモコン一つで縦横無尽に行き来して選択出来る時代になっており、これからCATV局が制作するのはチャンネルを廻す中で思わずストップして見入ってしまう様なコミチャンでなければ意味が無い、コミチャンこそがCATVの死活を握る鍵である、と言われたのです。各地のCATV局をお邪魔しつつも、これ程明確に自主制作番組のプレゼンス向上に対して明確な言葉で言及される経営者の方にお目にかかったのは初めての事であると思える程、強い意思と決意を感じ取らせて頂く事になった訳です。


旧友とともに頂いた地鶏のもも焼き。ゆず胡椒が堪らなくマッチする絶品でした。ちなみに宮崎駅で食べた立ち喰いうどんも実に美味しかったです。

もちろん、会社の規模もそれぞれのキャリアもまったく比べ物にならない代表者同士のミーティングではありましたが、それにも増して元部下の同級生が何か分らんが一所懸命やっているんだな、という視線からのお話にはそこはかとない暖かさを感じてしまいました。と同時に「これほど精魂かけて作っているわしらのコミチャンを生半可な奴には預けられんぞ」という先達且つ先輩としての社長からのメッセージも同時頂に聞いた様な気がするのです。

25年前の高知沖の調査航海の昼の当直さなかの事。

「本船はイルカの大群に包囲されました」という船内放送を聞いた私は駆け足でデッキに駆け上がり、船を取り囲む何万等ものイルカの群れに言葉を忘れて見入ってしまいました。

もしかするとあの船内放送は、18歳のにわか船員である私や他の学生に対する船長さんの配慮だったのかもしれないと、当時の事を思い出すにつれ、今も昔も目上の方の粋な心遣いをしみじみと格好良く感じ、そして有難く思うのでした。

写真:竣工当時の白嶺丸。私が乗船した頃には、船尾のAフレームはもっと大きかった様に思います。煙突に描かれた赤地に白の山のマークが特徴的でした。※金属鉱業事業団のパンフレットより