「である」調で語るメディアの在り方 -3-


一方、もう一つ忘れてならない伝統的ななメディアにラジオがある。ラジオに関しては、新聞やテレビとは少し違った立ち位置を持っていると考えている。

数十年前にテレビが登場した頃には、ラジオの役割は終わったという意見も聞かれたようだが、依然としてラジオとラジオ放送が存在し続けている理由はラジオが持つその独特な立ち位置にあり、しかも自らも利用する側もその立ち位置を変える事によって時代のニーズに適合し続けているからだろう。

ラジオは、筐体の小型化が成功した時点から、常にモバイル機器であり続けているのである。

その事によって、通勤時や車でのドライブの際に、スポーツ観戦時に、また防災という大変重要な生活の局面においても、ラジオはそのプレゼンスを発揮し続けている。最近流行しているワンセグ携帯がラジオの次に来る物では無いかという意見が存在するかもしれないが、何よりも移動時や非市街地圏での放送受信の安定度や、イヤホン一つで情報を得られるというスタイルを考えてもモバイルと言う点ではまだまだラジオに比する物にはなり得ていない。もしかすると通勤と言う言葉で新聞をイメージされる方も居るかもしれないが、新聞では情報は更新されないし音楽を聞く事も出来ない。

そして近年ラジオは劇的に、その立ち位置に新たなフィールドを得る事に成功する。放送済みの番組、つまりラジオ局にとって本質的には唯一の財産であるコンテンツのPodcastingによる再配信である。
放送と言う観点から考えた場合、私はアップルがiPodと当時のiTunes Music Storeによって音楽産業に与えたインパクトと少なくとも同等以上のインパクトをPodcastingに感じ、そしてこらからの可能性に興奮した事を覚えている。

Podcastingが登場した当初、人様にその興奮を伝え、またその仕組みを説明する際に使ったのが「自動エアチェック」という言葉だったのが面白くまた懐かしい。そもそもエアチェックと言う言葉自体を知らない若い世代がいるのだと知った事も印象に残っている。

あえてここで詳しい説明の為に時間を割く事はしないが、Podcastingの登場によって“視聴者は世界中のラジオ番組から自らが能動的に選択したラジオ番組を自動的に取得する事が出来、また世界中のラジオ局は極めて少ない設備投資で世界中に自社の番組を配信する事が可能になった”のである。

確かに、ストリーミングという技術を使えばインターネットを経由して同時に多くの視聴者にラジオ番組を届ける事は可能である。しかし、視聴者の増加に伴ってネットワーク上のキャッシュシステム(コンテンツの分身)を配したCDNや、IPマルチキャストという工夫が求められる様になってきた事を考えれば、「遅いネットワークであってもリアルタイム性を必要とせず、確実にファイルを視聴者に届ける事さえ出来れば良い」というPodcastingの仕組みの優位性は明白である。

もちろん、リアルタイム性を必要とするニュースや防災情報の放送等を、仮にインターネットとコンピュータでエミュレートするとしたらやはり基本的にはストリーミングを利用するしかない事に変わりはないが、そうでないコンテンツ、テレビ放送の中で述べたオンデマンド配信の様な場合にはPodcasting程使いやすい枠組みは無い筈である。やる気さえあれば、例え個人でもPodcastingによる放送は可能である事は既に周知である。

ちなみにPodcastingを可能にしている最も重要な技術的要素のひとつがRSSである。


ある日のラジオの番組表。中日-巨人戦が3つの局で放送されている。これは東京の放送なので、決して阪神戦とは言わないが、1局くらいヤクルト戦を放送しても良いのではないだろうか?

この様に、伝統的なメディアであるラジオは更なるマーケット領域拡大の可能性さえも秘めている訳だが、その放送内容に関しては疑問を感じざるを得ない事もある。
もしかすると、私が知らない業界の縛りの様な物が存在するのかもしれないが、いわゆるゴールデンタイムに各局が同じコンテンツを毎日の様に競って放送している事をご存知だろうか?

いつも野球の話に収斂してしまうようで恐縮だが、首都圏では常に巨人戦を複数の局が毎日放送しているのである。もちろん、アナウンサーや解説者も違えば、プレゼント企画等も違う別の放送では有るが、アナウンサーやプレゼントの内容で放送を選択する視聴者が大多数を占めるとは私には思えない。番組の選択肢として存在するのは先ず、自分が応援しているチームの放送か否かであり、次にくるのは恐らく受信感度であろう。批判や誤解を恐れずに言えば、これは公共電波の無駄遣いでは無いだろうか。巨人・大鵬・卵焼きの時代ならいざ知らず、視聴者の嗜好の多様化と共にプロ野球ももはや巨人ありきの時代ではないのである。

最後に、日常的に私が仕事でお世話になっているCATVについて述べたいと思う。

先日、あるCATV局の社長との会食の際にテレビ放送で流されているコンテンツに関して議論になった事があり、バラエティ番組について私が言及した時には「ただし、そのバラエティを求める視聴者層が90%いる事を忘れてはならない」と諭された。

もちろん全てのバラエティ番組が低俗で、決して、バラエティ番組を見ない私が高尚だと言いたい訳でも思っている訳でもない。中には良く工夫されたり感心させられる様な番組もあれば、見て楽しかったり有益な情報を提供してくれる番組も存在する。ただ、今の私には殆どが興味の対象で無く、もし可能であれば見たいと思える番組は別に存在し、また教育的な観点から我が家の子供達には見せたくない番組も多く存在するという事である。

平成14年に施行された電気通信役務利用放送法は今年で5年目を迎えた。NTT及びNTT東日本はNGNを使った介護システムの体験サービスをいよいよ開始し、娯楽系のコンテンツ配信に加えてこういった様々な魅力的なアプリケーションを携えてのCATV業界とのダイレクトなコンペティションがやがて本格化する。CATV業界はどのようにしてそれら巨大資本に対抗して行くのだろうか。万人受けするバラエティ番組的なコンテンツに対する確固としたニーズが存在する以上、CATV局のサービスに於いても映画やスポーツと言った娯楽系の番組が無くてはならないという事は良く理解しているつもりだが、NTTや衛星通信事業者や電力系通信事業者と直接的に競合しないためにも、差別化出来る部分をこれまでよりも更に強調するという事が従来にも増して益々重要になって来る筈である。

数千〜数万、多くても10数万の加入世帯しか持たず、都市部への流出による人口減と言う問題を抱える地方都市を基盤とするCATV局は、今後、爆発的な加入世帯数の増加は見込めない現状を踏まえ、巨大資本に対抗する為に色々な方法も模索していると聞く。つい先日も、大変親しくして頂いている方が在職されているCATV局が、効率化によってさらに経営基盤を強化する為に合弁に踏み切ったと言うニュースを知り大変驚いた事がある。

CATV局と新聞社が何十年間もわたり果たして来たメディアとしての役割のひとつが、地域の視点に立った地域の人の為の報道や放送である事は明白である。また、CATVが難視聴域に映像を届け、インターネットという今や欠かせないインフラを国土の隅々まで行き渡らせて来た功績は計り知れない。地震や大雨等の災害時に、被災者の立場に立ちつつ、報道という形で被災者を支援して来た事例は枚挙にいとまが無い。地域の自然、文化資産や普段着の食文化に至るまでの映像資産を保有しているのは恐らくCATV局やその地域のプロダクションだけだろう。

私の子供の頃のアルバイトと言えば先ず誰もが新聞配達を想像した様に新聞は常に市民の生活とともにあり、また社説や論評と言う形で今起こっている社会問題の捉え方を啓蒙し続けて来た。

この様に文化と生活を支えて来た地域メディアが、資本力の違いや競争原理によって失われる事が有ってはならない。

コンピュータとインターネットがほぼ全てのメディアをエミュレートする(出来る)様になって来た今日は、前述した様に部分的には既に昔思い描いた未来である。
そのインフラを積極的に活用し、例えば新聞社のサイトとCATV局のコンテンツが連携して相乗効果を目指す事等によって新しい収益構造の確立を目指して行く事は、恐らく伝統的な各メディアに共通の課題なのかもしれない。

※本エントリーは、後日加筆修正する可能性があります。

トップ写真:近くの寺院がライトアップされていました。見た目には大変綺麗だったのですが、写真にするとおどろおどろしくなってしまいました。毎年、ここを中心にした地域の文化祭が開催され、私の長女も継続して絵やパレードやコンサート等に参加しています。