「である」調で語るメディアの在り方 -2-


ちなみに、RSS広告の考え方自体は決して新しいものではなく、また現実的にその取り組みを行なっているのは現実的に地方新聞社では一社しか存在しない。しかし、仮にその事によってRSSと一緒にRSS広告を配信する事は効果がなく、且つマイナーな手段であると片付けてしまう意見があったとしたら私は少し早計過ぎると考える。

RSSについては、スパムメールが蔓延する今日ではメールさえもRSSで置き換えられないかという義論が存在する事や、その普及を阻害して来た原因の一つに、世界で最大のシェアを有しているブラウザが長年にわたって非対応だった事が挙げられる事等は以前のエントリでも述べた通りである。
いずれにせよ、東京に住んでいる私が石垣の漁港でサメが捕獲された事を、サイトをこまめにチェックする以外の方法で定期的に知る術を、私はRSSを購読する事以外には知らない。知らない事を知るのがニュースであるという前提で考えれば、検索サイトで探す事ももちろん出来ない。
地方の新聞社がコンテンツホルダとしての立場で情報と言う商品を積極的に露出させる取り組みを始めているのは全体の20%であり、その中でも広告配信にまで配慮している一社はむしろ先進的であると捉える方が自然だと思うのである。そして、ここに今後の新聞社サイトの在り方に関する何らかのヒントが隠れている筈なのである。

RSSに付随して表示される小さな広告は、読者側の属性でなく記事の内容に依存している為、厳密な意味でパーソナライズド広告と呼ぶ事は少なからず語弊を含んでいる。しかしその記事のRSSフィードを目に留めた人に対する露出の機会が極めて高いという点を踏まえて考えると、既に一定の効果を出すだけの土台は組み上がっていると考えて差し支えないだろう。

さて、このように報道やCMの家庭への伝達と言う、従来新聞が果たして来たメディアとしての役割の一部を既に置換してしまったコンピュータとインターネットであるが、パーソナライズドという視点で考えた場合、テレビという巨大メディアにはどういう事が言えるだろうか。

テレビには常に電源が入っていて何らかの番組が流れている、或はリモコンで番組を切り替えつつも基本的には受動的に誰かがテレビを眺めている事が多いという家庭は恐らく多いだろう。

但し、果たしてそういった視聴スタイルは今後も変わらずに未来永劫継続するものなのだろうか?

少子化による教育投資の活発化によって、時間がない、忙しいと言う子供が増えてきている事はニュースや実体験に於いても知っているし、また、むしろテレビを受動的に眺めているのは高齢者が多いと言う話も至る所で耳にする様になって来ている。高齢者の場合は一般的に相対的に消費活動に寄与する機会が少なく、さらに離れた家族とのメールのやり取りの為にパソコンに向かう時間がもしろ増えている。 かつては暇であった筈の子供も今では忙しい。

では、消費を支えている20〜40代の世代はどうだろう。CMスキップ機能を装備したビデオ録画機は既に何年も前から珍しい物でなく、最近ではハードディスクレコーダの登場によって視聴者がテレビ番組を選択して見るという素地も徐々にではあるが整って来ているのではないだろうか。これら視聴スタイルの変化一つを取ってみても、テレビCMを基軸にした放送業界が何らかのパラダイムシフトを近い将来必ず強いられる事になる事は想像に難くない。テレビでCMを流しているから物が売れる、或はテレビCMが流れているから安心、という消費者の心理的働きは既に収斂し始めており、今後はそもそもCMを見る機会が更に減少するばかりか、それに一連の大企業の不祥事が拍車をかけているのである。

一方、テレビで流れるコンテンツについてはどうだろうか?

例えば、私が時間を融通してでも見たいと思うであろう番組は、それが可能であるという前提で考えた場合、故郷京都や学生時代を過ごした沖縄のニュース映像やCM、或はバックパックを担いで旅したスペイン南部の映像や音楽番組である。また、ニュースや、気に留まったニュースの経過、見逃す機会の方が多いであろう良質なドキュメントであったり、阪神タイガースの試合や映画等である。私にとって公共放送の枠組みで流される暴力的でさえあるバラエティ番組の存在意義は皆無であり、子供達にも極力バラエティ番組を見る事による人生の時間の浪費をさせたくないと切に願っている。
そして現実的には、どこかに存在しているにもかかわらず、見たいコンテンツの殆どを私は見る事が出来ない。ひとつには、そういった番組が私の生活エリアで流れていないからであり,もう一つは見るタイミングが放送側の都合で規定されてしまっているからでもある。

仮に「それ」が実現すると仮定した場合、情報のみならず趣味や趣向が多様化する近い将来において所謂一般大衆に向けた現在の受動的視聴スタイルで視聴されるコンテンツが果たして継続して存在しうるのだろうか?そして「それ」が指し示す物は、つまりはオンデマンドと言う事になるのではないか。オンデマンドについて言えば、既に無数のサービスプロバイダが実証実験を終えたり有償サービスを開始している状況ではないだろうか。

気象情報やニュース以外の即時性を要求しないコンテンツについては、見たい番組を見たい人が見たい時に見れる環境を提供する、と言う事が究極的な今後の放送サービスであり、その枠組みの中では、中央のキー局でさえもがコンテンツホルダとして役割を自らが変化して行かざるを得ない。
そして、それは前述の新聞社が辿りつつあり、また今後辿って行くであろう道と、そう違わないのではないかと思えるのである。そして「それ」が実現した時には、CM自体もコンテンツとして求められている筈である。世の人の多くは車を買って5年後には、新しい車に乗り換えたいし、そういう人たちに取ってタイムリな情報はそれだけで価値があるのである。

「それ」は、私たちが考える「メディアの民主化とグループ放送」の一形態である。

(続く)

※本エントリーは、後日加筆修正する可能性があります。

トップ写真:海も徐々に秋の色に染まりつつあります。家族に付き合わされて訪れた八景島シーパラダイス。沖を行くヨットが無性に羨ましく感じました。