3秒間の永遠


打率0.1515、得点圏打率0.056(= 1安打)。105試合、77打席を経た阪神タイガース桧山選手の今年のここまでの成績。

京都出身であり、京都市内で私が通学していた高校に程近く、また近所に住んでいた野球の上手な先輩(と言うよりも当時は近所のお兄ちゃんといった感じでしたが)が甲子園に出場した高校でもある平安高校を卒業している事等から、他の選手に比べても比較的親近感を持っていた桧山選手ですが、ここ1〜2年間は他の選手の台頭も目覚ましく、その結果めっきり出場機会も減ってしまっています。

桧山の名前が私の目に留まる様になったのはたかだかここ10数年の事。三振が多く打率が低いと言う印象は拭えませんでしたが、暗黒の90年代を知る唯一の生え抜きは、4番を務めたかと思えばサイクルヒットを打ってみたり、2003年の久しぶりの優勝の年には確か選手会長も務めていた記憶があります。以前FA宣言した際には獲得の意思を示す球団が現れなかったため一部で嘲笑を買った事もありましたが、それでも阪神ファンの誰もが大好きで、バッティングの結果が如何なるものであろうとも決して憎めない選手である事は間違いないでしょう。積極的なファンサービスも印象に残っています。

そんな桧山選手ですが、大学を卒業しているためにたとえ10数年間の選手生活であるとはいえ、既に今年で38歳と言う年齢になっている訳ですから、もはやベテランの域に達しておりその活躍をみれるのも後ほんの数年かもしれないという事は残念ながらも曲げようの無い事実。若さや体力が永遠でなく過ぎ去った時間が決して戻らない様に、恐らく小学生の頃から野球に明け暮れた人生を送って来たであろうプロ野球選手の絶頂期も人々の記憶の中では一瞬の光のきらめきの様に過ぎ去ってしまうものなのでしょう。

桧山選手よりも5年程年長である私は、家庭を持ち、40歳を過ぎて、自分の子供が私の子供の頃と同じ様に野球に熱中するのを見るにつけ、つくづくプロ野球の観戦の仕方や選手の見方が以前と変わったなと言う事を自覚します。例えば沖原の楽天への電撃放出や、日本ハムに移籍した坪井の昨年末の解雇劇、怪我に泣かされ続けた横浜多村のソフトバンク行き、更にはにっくき読売の元エースのメジャー挑戦にまでも、どうか頑張って欲しいと心の底から願ってしまうのです。私にそう思わせるのは、そういった出来事を伝えるテレビのプロ野球ニュースが、彼らを支える奥さんや子供達の映像を多用する事が原因である事は良く分っているのですが、特に自分と年齢が近い選手には親近感を覚えてしまいがちです。もっとも彼らに言わせれれば、「お前こそブログなんか書いてないで仕事をしろ」と言われそうではありますが。
そしてそれらの選手の多くが、恐らくずっと忘れる事のないプレーを私の瞼に焼き付けてくれています。例えば最近で言えば、沖原の雨天中止の試合でのヘッドスライディングによるファンサービスや、中村豊の右中間に抜けんとするゴロのスライディングキャッチ、藤本の華麗なるセカンドの守備等々。

さて、岡田監督による桧山の起用方法、最近で例えれば八木の様な代打専門要員として育てて使って行こうとしているのか、それとも今年が阪神最後の年と、ファンでさえも首を傾げる様な場面であっても代打として使う事によって花道にしようとしているのか、今年の成績を見る限りではどちらとも取れるのですが、はや来年の桧山の処遇が気になりだしている今日この頃である訳です。

序盤1〜2回にまさかの7点の大量失点を喫し、その後2点は返したものの、長年にかけて身に染み付いてしまった習性や条件反射からか、私の関心の殆どが上位のライバルチームの勝敗の方に向きつつあった今日の試合の4回の表。新しく最近台頭して来た若手、つまりは彼らによって桧山は自分のチーム内での立ち位置を奪われる事になったとも言える、林・桜井の連続ヒットと矢野の四球によって無死満塁という千載一遇のチャンスが転がり込んで来ました。ここで監督岡田が選択したのは代打桧山。

何故か確固たる理由が無くても、揺るぎない自信の元にある事を確信する事が稀にあります。私にとっては、まさにこの時がそうだったと言えます。

「ここで桧山は必ずホームランを打つ」

得てして満塁と言うケースは点が入らない事も多く、また最近の桧山の代打の結果を見る限りでは、効果的な四球を選ぶ事はあっても打てばピッチャーゴロやファールフライが関の山であるため、阪神ファンの多くがその代打起用に驚いたと事と思います。私も何を隠そう、代打桧山が告げられたその時には「ちょっと違うんじゃあないのかな、まあゲッツーの間に1点ってところか」と思ったのですが、一球二球と投手との勝負が進むに連れて、知らぬ間に、この桧山の打席が終わった後は「最大7点もあった点差を一気に1点差まで詰め寄り、その後JFKで締めつつ本日は大逆転勝利を収めるのである」、という結末以外は想像ができない自分がいたのです。

今もって尚、瞼に焼き付いて離れない幾多のプレー同様に、3秒間に満たないその放物線は永遠に私の(そして多くの阪神ファンの)胸に残る事になるのでしょう。カウント2-1からの4球目、ヤクルト3年目の若き右腕松岡健一投手のフォークボールに反応し、桧山選手が放った打球は、私にとって、自分がかつて草野球で打ったものを除いて、最も嬉しいホームランになるべく、美しい放物線を描きながらバックスクリーンへ吸い込まれて行くのでした。

写真:2002年、横浜戦でライトの守備につく桧山選手。今思えば、これが初めて息子を野球場に連れて行った試合でした。